を吹き払うあの南風が、彼女のうちにも多少感ぜられた。彼女は天分が豊かであった。教養も思慮もなかったけれど、美しいよい物ならば、それをただちに心から感ずることができて、ほんとうに感動するほどだった。そしてすぐそのあとで、にわかに大笑いをした。もとより、彼女は仇《あだ》っぽい女で、瞳《ひとみ》をよく働かせた。よく合わさっていない化粧着の下から、裸の喉《のど》をのぞかしてるのも、少しも不愉快ではなかった。彼女はクリストフの心を迷わせたかったかもしれない。しかしそれはまったく本能からであった。なんらの打算もなかった。笑い、快活に話をし、気兼ねも遠慮もなく、善良なお坊《ぼっ》ちゃんとなりお友だちとなることを、いっそう好んでいた。芝居生活の内幕や、自分のちょっとしたみじめな事柄や、仲間たちのつまらない猜疑《さいぎ》や、彼女に光らせないようにと注意してるゼザベル――(彼女は座頭の女優をきらってゼザベルと綽名《あだな》していた)――の意地悪なことなどを、彼に話してきかした。彼はドイツ人にたいする不平をうち明けた。彼女は手をたたいて面白がり、彼に調子を合わした。彼女は元来善良であって、だれの悪口をも言うつもりではなかったが、しかしやはり自然と悪口を言うのだった。だれかを揶揄《やゆ》する時には、自分の意地悪さを心ではとがめながらも、やはり南欧人の特色たる、現実的な滑稽《こっけい》な観察の才を失わなかった。彼女はそれをどうすることもできないで、うがった批評をくだすのだった。若犬のような歯並みを見せて、蒼《あお》ざめた唇《くちびる》で面自そうに笑った。化粧のために色|褪《あ》せた蒼白い顔の中には、隈《くま》のある眼が輝いていた。
 二人は突然、もう一時間以上も話をしたことに気づいた。クリストフはコリーヌ――(それが彼女の芸名だった)――へ、市内を案内するために午後誘いに来ようと申し出た。彼女はその考えにたいへん喜んだ。そして二人は、昼食後すぐに会う約束をした。
 約束の時間に、彼はそこへ行った。コリーヌは旅館の小さな客間にすわって、書き抜きを手にしながら声高く読んでいた。彼女は笑《え》みを含んだ眼で彼を迎え、なおやめないで文句を終わりまで読んだ。それから、安楽|椅子《いす》の自分のそばにすわるように合図をした。
「かけてちょうだい、そして口をきいちゃ厭《いや》よ。」と彼女は言った。「台詞《せりふ》を読み返してるところなの。十五分もかかれば大丈夫よ。」
 彼女は急《せ》き込んでる小娘のように、ごく早くやたらに読み散らしながら、爪《つめ》の先で書き抜きをたどっていた。彼は諳誦《あんしょう》の手伝いをしてやろうと言い出した。彼女は彼に書き抜きを渡し、立ち上ってくり返した。盛んに言いよどんだり、次の文句へ進んでゆく前に、前の句の終わりを何度もくり返したりした。諳誦しながら始終頭を振っていた。髪の留め針が室の方々に落ち散った。なかなか覚えにくい言葉に出会うと、躾《しつけ》の悪い子供のように焦《じ》れったがった。時とすると、おかしな悪口やかなりひどい言葉――みずから自分に浴びせかけるごくひどい短い言葉――を発することもあった。クリストフは、才能と幼稚さとを共にそなえてる彼女に驚いた。彼女は正当な感動的な台辞回しを見出していった。しかし、全心をこめてるらしい調子の最中に、なんの意味も含まないような言葉を言うことがあった。かわいい鸚鵡《おうむ》のように文句を諳誦して、どういう意味のものであるかは少しも気にかけなかった。するともう支離滅裂なおかしなものになってしまった。彼女はいっこう平気だった。自分でも気がつくと身をねじって笑いこけた。しまいには「ちぇッ!」と言いすてて、彼の手から書き抜きを奪い取り、室の隅《すみ》に投げやり、そして言った。
「もうおしまい、休みの時間だわ!……散歩に出かけましょう。」
 彼は彼女の台辞《せりふ》に多少不安を感じて、懸念《けねん》のあまり尋ねた。
「覚えたつもりですか。」
 彼女は確かな様子で答えた。
「大丈夫よ。それにまた、黒坊《くろんぼ》だってついてるんだもの。」
 彼女は帽子を被《かぶ》りに室へ行った。クリストフは待ちながら、ピアノの前にすわって少しばかり和音をひいた。向こうの室から彼女は叫んだ。
「あ、それはなんなの? もっとひいてちょうだい。ほんとにいいこと!」
 彼女は帽子を頭に留めながら駆けて来た。彼はひきつづけた。ひいてしまっても、彼女はもっとつづけるように願った。そして、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]の曲についても一杯のチョコレートについても同様にまき散らす、フランス婦人特有の気のきいた短い感嘆の声をたてながら、彼女はうっとりと聞き入っていた。クリストフは笑っていた。ドイツ人の大袈裟《おおげさ》な強調した感嘆の言
前へ 次へ
全132ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング