面に躍《おど》りたってる大喜悦のほかは、何にも見えなかった。方々の大時計が鳴った。劇場へもどって劇の終わりを聞くことは、彼にはできそうにもなかった。フォルティンブラスの勝利を見にもどれというのか? いや、彼はそれに心ひかれなかった。……なるほどみごとな勝利だろうさ! だれがそんな勝利者をうらやむものか。獰猛《どうもう》な愚かな生命のあらゆる蛮行に飽きはてた後、勝利者になって何になろうぞ。作品全部が生命にたいする恐るべき迫害である。しかしながらその中には、生命の異常なる力が沸きたっていて、悲哀は喜悦となり、苦悩は人を陶酔せしむるほどになっている……。
クリストフは、あの初対面の若い女のことはもはや気にもかけないで、家に帰っていった。彼は彼女を桟敷の中に置きざりにして、その名前さえも知らなかった。
翌朝、彼は女優に会いに、三流どころの小さな旅館へ出かけた。興行主は彼女を仲間といっしよにそこへ泊まらせ、ただ座頭《ざがしら》の女優だけを、町一流の旅館に入れていたのである。クリストフは乱雑な小さな客間に案内された。朝食の残り物が、髪の留め針や裂けたきたない楽譜の紙とともに、蓋《ふた》を開いたピアノの上にのっていた、傍《かたわ》らの室ではオフェリアが、ただ騒ぐのが面白さに、子供のように声を張り上げて歌っていた。訪問者があるのを告げられると、彼女はちょっと歌をやめて、壁の向こうまで聞こえても構わないような、快活な声で尋ねた。
「なんの用だろう? どういう名前なの?……クリストフ……クリストフそれから?……クリストフ・クラフトだって……おかしな名前だこと!」
(彼女はリ[#「リ」に傍点]やラ[#「ラ」に傍点]の音をひどく口の中でころがしながら、二、三度その名前をくり返した。)
「まるで悪口《わるくち》の言葉のようだわ……。」
(彼女こそ悪口を一つ言ったのだ。)
「若い人、それとも年寄り?……よさそうな人なの?……そんならいいわ、行ってみよう。」
彼女はまた歌いだした。
――吾《わ》が恋よりもやさしきものは世にあらじ……
歌いながら、室じゅうをかき回し、散らかった物の中にはいり込んだ鼈甲《べっこう》の留め針を、ののしりちらした。じれったがって、怒鳴りだし、獅子《しし》のように猛《たけ》りたった。クリストフにはその姿は見えなかったけれど、壁越しに彼女の身振りを一々想像して、一人で笑っていた。ついに足音が近づいてき、扉《とびら》がさっと開かれ、そしてオフェリアが現われた。
彼女はちゃんとした服装をしてはいなかった。化粧着を身体にまきつけ、広い袖《そで》の中に腕を露《あら》わにし、髪はよく梳《くしけず》ってなく、巻き毛が眼や頬《ほお》にたれ下がっていた。その美しい褐色の眼は笑い、口も笑い、頬も笑い、かわいらしい小窪《こくぼ》が頤《あご》のまん中に笑っていた。彼女は荘重な歌うような美しい声で、そんな姿で出て来たことをちょっと詫《わ》びてみた。しかし、別に詫びるわけはないことを、かえって感謝されていいことを、よく知っていた。彼女は彼を、訪問にやって来た新聞記者だと思っていた。そして、ただ自分一個の考えで来たのだと言われ、彼女を賛美してるからだと言われると、失望するどころか、非常に歓《よろこ》んだ。彼女は愛嬌《あいきょう》のいい善良な娘で、人に喜ばれるのが大好きで、またそれを隠そうともしなかった。クリストフの訪問と心酔とに、彼女はうれしくなった。――(彼女はまだ、世辞追従に毒されてはいなかった。)――彼女はその動作においても、作法においても、小さな虚栄心においても、また人に好かれる時に感ずる無邪気な喜びにおいても、少しの不自然さもなかったので、クリストフは一瞬間も窮屈を感じなかった。二人はすぐに古い友だちのような間になった。彼は拙《まず》いフランス語を少し話し、彼女は変なドイツ語をわずか話した。一時間もたつと、どんな内密な話でももち出した。彼女は少しも彼を帰らせようとは思わなかった。この強健で快活で怜悧《れいり》で感情を隠さない南欧の女は、愚かな仲間たちにとりまかれ、言葉を知らない他国にあって、生来の喜びをも覚ゆることなく、退屈でたまらなかったので、話し相手を見出したのがうれしかった。クリストフの方では、誠実に乏しいいじけた小市民らのまん中で、平民的元気に満ちた南欧の自由な女に出会ったことは、言い知れぬ幸福であった。彼はまだ、それら南欧人の不自然な性質を知らなかった。彼らはドイツ人と違って、その心の中にもってるもの全部を相手に示す――またしばしば、もっていないものをも相手に示すことがある。しかしとにかく、この女優は年が若かった、溌剌《はつらつ》としていた、思ってることを、腹蔵なく露骨に言ってのけた。清新な見方で、すべてを自由に批判した。雲霧
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