去った。
「僕が隣りにいるとたいへん不愉快でしょうね、ごめんください。」
 そこで彼女は彼をながめた。そして、先刻いっしょに来る決心の動機となったあの善良な微笑をまた彼の顔に見出した。
 彼はつづけて言った。
「僕は思ってることを隠すことができないんです。……それにまた、あまりひどすぎたんで……。あの女が、あの婆《ばあ》さんが……。」
 彼はふたたび嫌悪《けんお》のしかめ顔をした。
 彼女は微笑《ほほえ》んで、ごく小声で言った。
「それでも、きれいですわ。」
 彼は彼女の語調に気づいて尋ねた。
「あなたは外国の方《かた》ですか。」
「ええ。」と彼女は言った。
 彼は彼女の質素な小さい長衣をながめた。
「先生をしてるんですか。」と彼は言った。
 彼女は顔を赤くして答えた。
「ええ。」
「国はどちらです?」
 彼女は言った。
「フランス人ですの。」
 彼は驚きの身振りをした。
「フランス人ですって? 僕は思いもつきませんでした。」
「なぜですの。」と彼女はおずおず尋ねた。
「あなたはたいそう……真面目《まじめ》だから。」と彼は言った。
 (彼女はそれを、彼の口から出る以上まったくお世辞ではないと考えた。)
「フランスにだって真面目なものもありますわ。」と彼女は当惑して言った。
 彼は彼女の正直そうな小さな顔、丸く出てる額《ひたい》、小さなまっすぐな鼻、細そりした頤《あご》、栗《くり》色の髪に縁取られてる痩《や》せた頬《ほお》を、うちながめた。しかし彼の眼に映ってるのは彼女ではなかった。彼はあの美しい女優のことを考えていた。彼はくり返し言った。
「あなたがフランス人だとは実に不思議だ!……ほんとうにあなたはあのオフェリアと同じ国の人ですか。そうだとはだれにも思えないでしょう。」
 彼はちょっと黙った後につけ加えた。
「あれは実にきれいですね!」
 彼は、隣席の女にとってはあまりありがたくない比較を、彼女とオフェリアとの間に試みてる自分の調子に、みずから気づかなかった。彼女の方はよくそれを感じた。しかし彼女はクリストフを恨まなかった。なぜなら、彼女も彼と同じ考えだったから。彼はあの女優に関するいろんなことを、彼女から聞き出そうと試みた。しかし彼女は何にも知らなかった。明らかに彼女は、芝居のことにはほとんど通じていなかった。
「フランス語が話されるのを聞くのは、あなたには愉快でしょうね。」と彼は尋ねた。
 彼は戯れのつもりだったが、しかし図星をさした。
「ええ、それはもう、」と彼女は彼がびっくりしたほど真実な調子で言った、「どんなにかうれしいことですわ。こちらでは、私は息苦しい気がしますの。」
 彼はこんどはなおよく彼女をながめた。彼女は軽く両手を震わせ、胸苦しいようなふうだった。しかし彼女はすぐに、今の自分の言葉のうちには、あるいは相手の気色を害するものがあるかもしれないことを、思いついた。
「あら、ごめんください、」と彼女は言った、「自分でもなんだかわからないことを申しまして。」
 彼は淡白にうち笑った。
「あやまることがあるものですか。まったくおっしゃるとおりです。何もフランス人でなくっても、こちらでは息がつまりそうです。うっふ……。」
 彼は空気を吸い込みながら肩をそびやかした。
 しかし彼女は、そういうふうに考えをうち明けたのがきまり悪くなって、それきり口をつぐんでしまった。そのうえ彼女は隣り桟敷の人々がこちらの会話をうかがってるのに気づいていた。彼もまたそのことに気づいて腹をたてた。そして二人は話をやめた。彼は幕間《まくあい》が終わるのを待ちながら、廊下に出て行った。若い女の言葉はまだ彼の耳に響いていた。しかし彼は他のことに気を奪われていた。オフェリアの面影が彼の心を占めていた。そして次々の幕で彼はすっかりとらえられてしまった。狂乱の場面になると、愛と死とのあの哀《かな》しい歌のところになると、女優の声は人を感動せしめないではおかないような抑揚《よくよう》になり得たので、彼はまったく心転倒してしまった。子牛のように声を挙げて泣き出しそうになっている自分を、彼は感じた。そして、気弱さのしるし――(なぜなら、彼は真の芸術家たるものは決して泣いてはいけないと信じていたから)――だと思われるそのことにみずから憤り、また人に見られたくなかったので、ふいに桟敷から外に出た。廊下にも休憩室にもだれ一人いなかった。彼は心乱れながら階段を降りていって、みずから知らないで外に出た。夜の冷たい空気を吸いたかった。薄暗い寂しい通りを大跨《おおまた》に歩きたかった。いつしか運河の岸に出で、河岸の胸壁に肱《ひじ》をついて、黙々たる水をながめた。水の面には街燈の反映が闇《やみ》の中に踊っていた。彼の魂もそれに似ていた。真暗《まっくら》でおののいていた。表
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