。脂肪質で蒼《あお》ざめ、怒りやすく、狡猾《こうかつ》で、理屈っぽく、幻覚にとらわれてる、その強健なデンマーク人を、女――しかも女でもないのだ、男に扮《ふん》する女は怪物にすぎない――それになしてしまうとは? ハムレットを、宦官《かんがん》になし、もしくは曖昧《あいまい》な両性人物になすとは! そういう嫌悪《けんお》すべきばかばかしさが、ただ一日でも口笛を吹かれずに寛容されるとは、だらけ切った時代というのほかはなく、愚昧《ぐまい》きわまる批評界というのほかはないのだ。……女優の声はクリストフをすっかり激昂《げっこう》さしてしまった。彼女は各|綴《つづ》り字を切り離す歌唱的な口調をもっていた。シャンメーレ以来、世に最も詩的でない国民にはいつも貴《とうと》く思われたらしい、あの単調な朗詠法をもっていた。クリストフはいらだって、四つ匍《ば》いに動物の真似《まね》でもしたいほどだった。彼は舞台の方に背中を向けて、直立の罰を受けた小学生徒のように、桟敷の壁と鼻をつき合わせながら、憤怒の渋面をしていた。仕合わせなことには、連れの女は彼の方を見かねていた。もし彼女が見たら、彼を狂人だと思ったかもしれない。
にわかにクリストフの渋面はやんだ。彼は身動きもしないで口をつぐんだ。音楽的な美しい声が、荘重でやさしい若い女声が、聞こえてきたのだった。クリストフは耳をそばだてた。その声が語りつづけるに従って、彼は心ひかれて、そういう囀《さえずり》りをもってる小鳥を見んがために、椅子《いす》の上でふり返った。見るとオフェリアがいた。もとより彼女はシェイクスピヤのオフェリアとは似てもつかなかった。それは背の高い強健なすらりとした美しい娘で、エレクトラかカサンドラみたいなギリシャの若い女の彫像に似ていた。生命の気があふれていた。自分の持ち役だけにとどまろうと努力しながらも、その肉体や身振りや笑ってる褐色《かっしょく》の眼から、青春と喜悦との力が輝き出していた。その美しい肉体の魅力にとらえられてクリストフは、一瞬間前にはハムレットの演出にたいして峻厳《しゅんげん》だったにもかかわらず、オフェリアが自分の描いていた面影とほとんど似てもいないことを、少しも遺憾とは思わなかった。そして想像のオフェリアを犠牲に供しても、なんら後悔を感じなかった。熱情に駆られた者が有する無意識的な妄信《もうしん》さで彼は、その貞節な惑乱せる処女の心の底に燃えてる若々しい熱気に、一つの深い真実さまでも見出した。そしてその魅力をさらに大ならしむるものは、浄《きよ》い温《あたた》かい滑《なめ》らかな声の惑わしだった。一語一語が美しい和音のように響いていた。各|綴《つづ》り音のまわりには、百里香かあるいは野生|薄荷《はっか》の香《かお》りのように、弾力性の律動《リズム》を有する南欧のあでやかな抑揚が踊っていた。アルル国のオフェリア姫ともいうべき不思議な幻影だった。金色の太陽と狂おしい南風との多少を、彼女は身にそなえていた。
クリストフは隣席の女のことを忘れて、彼女のそばに桟敷の前方へすわった。そして名も知らないその美しい女優から眼を離さなかった。しかし一般の観客らは、無名の女優を見に来たのではなくて、彼女になんらの注意も払わなかった。そして女のハムレットが語る時にしか喝采《かっさい》しようとは思っていなかった。それを見て取ったクリストフは、彼らに「馬鹿者ども」と怒鳴りつけてやった――十歩先ばかりまで聞こえる低い声で。
舞台に間幕《あいまく》が降りてから彼は初めて、桟敷を共にしてる連れの女の存在を思い出した。そしてやはりおずおずしてる彼女を見ながら、自分の粗暴な様子は彼女をどんなにか驚かしたに違いないと、微笑《ほほえ》みながら考えてみた。――まさしく彼の考えたとおりだった。偶然にも彼と数時間いっしょにいることとなったその若い女の魂は、ほとんど病的なほど慎み深かった。思い切ってクリストフの招待を承諾したのも、異常な興奮のうちにあったからだった。そして承諾するやすぐに、どうかして彼の手をのがれ、口実を見出し、逃げてしまいたかった。皆の者の好奇心の的となってることを気づいた時には、なおたまらなかった。自分の後ろに――(彼女は振り向き得なかったのである)――連れの男の低いののしり声や不平の声を聞くに従って、ますますいたたまらなくなるばかりだった。彼がどんなことをしでかすかわからないような気がした。そして彼が出て来て自分のそばにすわった時、彼女は恐ろしさにぞっとした。まだ彼はどんなとっぴなことをするかわからない。彼女は穴にでもはいりたかった。そして知らず知らず身を引いていた。彼にさわるのが恐ろしかった。
しかし、幕間《まくあい》になって、おとなしく話しかける彼の声を聞いた時、彼女の恐れはすべて消え
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