た。なんとも言わないで出かけようとした。しかし階段の上まで来るうちに、彼女が独《ひと》りぽっちで一晩じゅう心配するだろうと考えた。彼は忘れ物があるという口実をみずから設けて、また室にもどった。母の室の扉《とびら》が半ば開いていた。彼はその間からのぞき込んだ。そして数秒の間母をながめた……。その数秒が、今後彼の生涯中いかなる場所を占めることになったか!……
 ルイザはその時、晩の祈祷《きとう》からもどって来たところだった。窓の隅の例の好きな場所にすわっていた。正面の家の亀裂《きれつ》のあるよごれた白壁が、ながめをさえぎっていた。しかし彼女がすわってる隅からは、右手の方に、隣家の二つの中庭の向こうに、ハンカチほどの芝生《しばふ》の片隅が見られた。窓縁には一|鉢《はち》の朝顔が絲にからんで伸びていて、ぶらさがってる梯子《はしご》の上にその細やかな蔓《つる》を広げていた。一条の光線がそれに当たっていた。ルイザは椅子《いす》に腰掛け、背を丸くして、大きな聖書を膝《ひざ》の上に開きながら、別に読んでもいなかった。両手を――筋が太くふくれて、労働者のように少し曲がってる四角な爪《つめ》のある両手を――聖書の上に平たくのせて、小さな植物と斜めに見える空の一角とを、しみじみとながめていた。金緑色の朝顔の葉から来る光の反射が、少し痣《あざ》のある疲れた顔を、ごく細かくてあまり濃くない白い髪を、微笑んで半ば開いてる口を、照らしていた。彼女はこの安息の時を楽しんでいた。それは彼女の一週間中で最もよい瞬間だった。苦しんでる者にとってはごく楽しい状態、何事も考えず、ただあるがままにうっとりとして、半睡の心だけが口をきいてくれる状態、それに彼女は浸っていた。
「お母さん、」と彼は言った、「少し出かけてみたいんです。ブイルの方を一回りしてきます。帰りは少し遅《おそ》くなるかもしれません。」
 うとうととしていたルイザは、軽く身を震わした。それから彼の方へ向き返り、平和なやさしい眼で彼をながめた。
「行っておいで。」と彼女は言った。「ほんとうにね、よいお天気だから。」
 彼女は微笑《ほほえ》んでみせた。彼もまた微笑み返した。二人はしばし顔を見合わしていた。それからたがいに頭と眼とで、ちょっとやさしい会釈をかわした。
 彼は静かに扉《とびら》を閉《し》めた。彼女はまた徐《おもむ》ろに夢想にふけった。色
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