ないのに、どこへ行っても、クリストフは立派な批評家で、これまではおのれの天職を思い誤っていたが、自分マンハイムが彼に真の天職を示してやったのだと、いつもくり返し吹聴《ふいちょう》した。一同は彼の書く物を、好奇心をそそるような奇体な言葉で予告した。そして彼の最初の論説は実際、この小さな町の無気力な雰囲気《ふんいき》の中では、家鴨《あひる》の沼の中に落ちた一個の石のごときものだった。それは音楽の過剰[#「音楽の過剰」に傍点]と題されていた。
「音楽が多すぎる、飲み物が多すぎる、食べ物が多すぎる!」とクリストフは書いていた。「人は腹もすかず、喉《のど》もかわかず、必要も感ぜずに、ただ貪婪《どんらん》な習慣から、食ったり飲んだり聞いたりしている。そういうのが、ストラスブルグの馬鹿な摂生法だ。この人民らは貪食《どんしょく》症にかかっている。与えられるものならなんでも構わない。トリスタン[#「トリスタン」に傍点]でもゼッキンゲンのラッパ手[#「ゼッキンゲンのラッパ手」に傍点]でも、ベートーヴェンでもマスカーニでも、遁走《とんそう》曲でも、速歩舞踏曲でも、また、アダム、バッハ、プッチーニ、モーツァルト、マルシュネル、なんでも構わない。彼らは何を食ってるのか自分でも知らない。大事なのはただ食うということだ。そして食うことにも、もはや楽しみを覚えなくなっている。音楽会での彼らを見るがいい。ドイツの快活と世に言われているが、彼らは快活のなんたるやをも知らないのだ。彼らは常に快活にしてる。彼らの快活は、彼らの悲哀と同じく、雨のように広がっている。それは塵埃《じんあい》の喜びであり、弛緩《しかん》しきって無力である。彼らはぼんやり微笑《ほほえ》みながら、音響に音響に音響を聞きふけって、幾時間もじっとしている。何にも考えてはいない。何にも感じてはいない。まるで海綿だ。しかし、真の喜びや真の悲しみ――力――は、一|樽《たる》のビールのように、幾時間にも分け広げられるものではない。それは人の喉《のど》元をとらえ、人を打ち倒す。そのあとではもはや、なお何かを飲み下したい欲求は感ぜられない。それだけで十分なのだ!……
「音楽が多すぎる! 諸君はみずから身を殺し、また音楽を殺している。みずから身を殺すのは、それは諸君の勝手である。しかし音楽については――いい加減によしてもらいたい。神聖なものと醜劣なも
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