した。ミルハはそれを当然だと思ってるらしかった。
「なんだ、お前たちは知ってるのかい?」とクリストフは呆気《あっけ》にとられて尋ねた。
「もちろんだわ。」とミルハは笑いながら言った。
「いつから?」
「ずっと前から。」
「そしてお前も知ってたのかい?」とクリストフはアーダに尋ねた。「なぜそう言わなかったんだい?」
「ミルハさんの情人《いろおとこ》ならみんな私が知ってるとでも、あんたは思ってるのね。」とアーダは肩をそびやかしながら言った。
ミルハはその情人という言葉|尻《じり》をとらえて、冗談に怒ったふうをした。クリストフはそれ以上何にも知り得なかった。彼は鬱《ふさ》ぎ込んだ。エルンストも、ミルハも、アーダも、皆率直さを欠いてるように彼には思えた。それかと言って、実を言えば、彼らになんら嘘をとがむべき点もなかった。しかし、アーダにたいしてはなんの秘密ももたないミルハが、そのことだけを隠しだてしていようとは、信じがたかったし、エルンストとアーダとが今までたがいに知らなかったとは、信じがたかった。クリストフは二人の様子をうかがった。二人は平凡な言葉を少しかわしただけだった。そしてエルンストは散歩の間じゅう、もうミルハにしか取合わなかった。アーダの方でも、クリストフにしか話しかけなかった。彼女は彼にたいして、いつもよりずっと愛想がよかった。
それ以来、エルンストはいつも彼らの仲間に加わった。クリストフは彼を除外したかったが、あえて口には言い出せなかった。弟を遠ざけたいのは、彼を遊び仲間にすることの恥ずかしさ以外に、他に理由があるのではなかった。クリストフは疑惑をいだいてはしなかった。エルンストはなんら疑惑の種をも与えなかった。ミルハに熱中してるらしかった。そしてアーダにたいしては、ていねいな遠慮を守り、ほとんど不相応な敬意をさえ見せていた。あたかも兄に示す尊敬の一部を、兄の情婦へも移そうとしてるがようだった。アーダはそれを別に怪しまなかった。そして自分でも同じく用心をしていた。
彼らはいっしょに長い散歩をした。兄弟二人は先に進み、アーダとミルハとは笑いさざめきながら、数歩あとからついて行った。彼女らはよく道のまん中に立止っては、長い間しゃべり合った。クリストフとエルンストもまた立止って、二人を待った。しまいにクリストフはじれったくなって、また歩き出した。しかし二人のおしゃべり女を相手にエルンストが談笑してるのを聞くと、不快になってすぐに振り向いた。彼らが何を言ってるか知りたかった。でも彼らが彼に追いつく時には、もう話はやんでいた。
「みんなでいつも何をたくらんでるんだい?」と彼は尋ねた。
彼らは冗談を言ってそれに答えた。三人はたがいに諜《しめ》し合していた。
クリストフはアーダとかなり激しい口論をしたのだった。その日は朝から二人でぶつぶつ言い合っていた。アーダはそういう場合にはいつも、意趣晴しをするためにたまらない厭《いや》なふうを見せつけながら、傲慢《ごうまん》なむっとした様子をするのであったが、その時は珍しくもそうではなかった。こんどに限って彼女は、単にクリストフを無視するようなふうをして、他の二人の連れを相手にいかにも上|機嫌《きげん》に振舞っていた。心ではその諍《いさか》いを別に怒ってもいないかのようだった。
これに反してクリストフは、非常に仲直りをしたがっていた。かつてないほど熱中しきっていた。恋愛の恩恵にたいする感謝の情、ばかげた口論で時間を浪費した後悔の念――また理由もない懸念、この恋愛も終りに近づいてるという変な気持、そういうものが彼の愛情につけ加わっていた。彼は寂しげにアーダの美しい顔をながめた。アーダは彼の方を少しも見ないようなふうを装って、他の者と笑い戯れていた。その顔は多くのなつかしい思い出を彼のうちに呼び起こさせた。そのあでやかな顔は、時々――(この時もそうだったが)――多くの温良さといかにも純潔な微笑とを浮かべることさえあって、そんな時クリストフは、なぜ二人の間がもっとうまくゆかないのか、なぜ二人は自分たちの幸福を好んで害しているのか、なぜ彼女は輝かしい時間を忘れようとつとめ、自分のうちにもってる善良な正直なものと背馳《はいち》しようとつとめているのか、それを怪しむのであった。――二人の愛情の清らかさを、たとい頭の中においてにしろ、濁らしたりよごしたりして、いかなる不思議な満足を彼女は見出してるのか? クリストフは自分の愛するものを信じたくてたまらなかった。そしてさらにも一度みずから幻を描こうとつとめた。彼は自分の方が正しくないとみずからとがめ、自分に寛大な心が欠けてることを後悔していた。
彼はアーダに近寄った。話しかけようとつとめた。が彼女はただ二、三言冷やかな言葉を返すきりだった。少しも彼と仲直りしたいと思ってはいなかったのである。彼はせがんだ。ちょっと他の者から離れて自分の言うことを聞いてくれとその耳にささやいた。彼女はかなり不愛想な様子でついてきた。二人がだいぶわきにそれて、ミルハからもエルンストからも見られない所まで来ると、彼はふいに彼女の手を取り、許しを乞《こ》い、林の中の枯葉の上に、彼女の前にひざまずいた。こんなに仲違いしたままではもう生きておれないと彼は言った。もう散歩や麗わしい天気を楽しむこともできない。もう何物も楽しめない。彼女から愛してもらいたいのだった。なるほど彼は、正しくないこともしばしばあり、乱暴であり嫌味《いやみ》であることもあった。彼は彼女に許しを懇願した。罪は彼の愛そのものにあったのだ。愛のうちに何か凡庸《ぼんよう》なものがあることを、二人のなつかしい過去の思い出にまったくふさわしいものでなければ何物も、堪え忍ぶことができなかったのだ。彼は過去の思い出を、最初の邂逅《かいこう》やいっしょに過した初めの日々を、彼女に思い起こさした。いつも変らず彼女を愛しているし、永久に愛するだろう、と彼は言った。どうか遠のいてくれるな! 自分にとっては彼女がすべてである……。
アーダは彼の言葉に耳を傾けながら、微笑《ほほえ》みを浮かべ、落着きを失い、ほとんど感動していた。彼女は彼にやさしい眼つきをしてやった。たがいに愛していてもう怒《おこ》ってはいないと告げる眼つきだった。二人は抱擁し合った。そして寄り添いながら、落葉した林の中を歩いて行った。彼女はクリストフをかわいいと思い、彼のやさしい言葉に満足していた。しかし頭にもってる悪い思いつきを捨てはしなかった。でもさすがに躊躇《ちゅうちょ》され、先刻ほど気が進まなかった。それでもやはり計画どおりを実行した。なぜか? それをだれが言い得よう……。先刻みずから実行を誓ったからであるか?……そんなことがだれにわかるものか。おそらくは、自分が自由であるということを、恋人に証明してやり、自分自身に証明してやるために、彼を欺くのがその日はことに面白く思えたのかもしれなかった。彼女はそれで恋人を失うとは考えていなかった。失いたくはなかった。最も確かに恋人をとらえると信じていた。
一同は森の中の木立まばらな所に到着した。そこから二つの小道が分れていた。クリストフは一方の道をとった。エルンストは目的の丘の頂へは他方の道の方が早く着けると言い出した。アーダも同じ意見だった。クリストフはたびたび来て道をよく知っていたので、二人が間違ってると主張した。彼らはどちらも譲らなかった。そしてためしてみようということになった。どちらも自分の方が先に着くと誓った。アーダはエルンストといっしょに出かけた。ミルハはクリストフに従った。彼女は彼の方がほんとうだと信じてるらしいふうをしていた。そして「いつもあれだ」と一言つけ加えた。クリストフは戯れを本気にとっていた。そして負けるのがきらいだったから、足早に、ミルハが困るくらい早く歩き出した。ミルハはちっとも彼ほど急いではいなかった。
「まあそんなに急ぐことはないわ。」と彼女は例の皮肉な落着いた調子で言った。「私たちが先に着くにきまっててよ。」
彼はある懸念にとらえられた。
「なるほど、」と彼は言った、「少し早く歩きすぎるようだ。冗談じゃない。」
彼は足をゆるめた。
「だが僕は知ってる、」と彼はつづけて言った、「向うでは確かに、先に着くために駆けてるよ。」
ミルハは笑い出した。
「いいえ、心配しなくってもいいわ!」
彼女は彼の腕にぶら下り、彼にしかと寄り添っていた。クリストフより少し背が低いので、歩きながら、その怜悧《れいり》な甘えた眼で彼の方を見上げていた。彼女はまったくきれいで誘惑的だった。彼は彼女を見違えたような気がした。彼女くらい変りやすい者はなかった。普通は少し蒼《あお》ざめた脹《は》れぼったい顔をしていたが、ちょっとした興奮や、楽しい考えや、あるいは人の機嫌《きげん》をとりたい心が起こると、それだけでもう、お婆《ばあ》さんじみた様子がなくなり、頬《ほお》には赤味がさし、眼の下やまわりの眼瞼《まぶた》の皺《しわ》が消え、眼つきに光を帯び、そして顔立ち全体に、アーダの顔に見られないような青春と活気と機知とが浮かんでくるのだった。クリストフはその変化に驚いた。彼は眼をそらした。彼女と二人きりなのが少し不安だった。彼女が煩わしかった。彼は彼女の言ってることには耳を傾けず、返辞をせず、あるいはでたらめの返辞をした。そしてアーダのことだけを考えていた――考えたかった。アーダが先刻見せたやさしい眼のことを思った。恋しさで胸がいっぱいになった。清らかな空に細い小枝を伸してる林の景色がいかに美しいかを、ミルハは彼に見とれさせたがっていた。……そうだ、すべてが美しかった。雲は散り失《う》せていた。アーダは彼の手にもどっていた。彼は二人の間の氷を砕くことができたのだった。二人はまた愛し合っていた。もはや一体にすぎなかった。彼は安堵《あんど》の息をついた。いかに空気も軽やかだったことか! アーダが彼にもどってきたのだ……。すべてが彼に彼女のことを思わせた。……少し天気が湿っぽかった。彼女は寒くはないだろうか?……美しい木立に白く水気が凍りついていた。彼女に今それを見せられないのが残念だ。……しかし彼は勝負のことを思い出した。そして足を早めた。道を間違えないように用心した。目的地に着くと、意気揚々として言った。
「僕たちが先《さき》だ!」
彼は愉快そうに帽子を振った。ミルハは微笑《ほほえ》みながら彼をながめていた。
二人がいる場所は、森の中の長い険しい岩だった。榛《はしばみ》といじけた小樫《こがし》とがまわりに茂ってる頂上の高台から見おろすと、木立のある斜面や、紫色の靄《もや》に包まれた樅《もみ》の梢《こずえ》や、青々とした谷間を流れるライン河の長い帯が見えていた。小鳥の声もしなかった。人声もしなかった。そよとの風もなかった。どんよりした太陽の蒼白《あおじろ》い光に寒げにあたたまってる、しみじみと静まり返った冬の一日であった。遠くには時々、汽車の短い汽笛が谷間に響いていた。クリストフは岩の端に立って、その景色にながめ入った。ミルハはクリストフをうちながめていた。
彼は機嫌《きげん》のいい様子で彼女の方へ振り向いた。
「どうだい、怠惰者《なまけもの》たちだなあ、僕が言ってやったとおりだ!……よし、待っててやれ……。」
彼は亀裂《ひび》のはいった地面の上に、日向《ひなた》に寝そべった。
「そうよ、待ってましょう……。」とミルハは帽子を脱ぎながら言った。
彼女の口調には、いかにも嘲《あざけ》り気味がこもっていたので、彼は身を起こして彼女をながめた。
「どうなすったの?」と彼女は平然として尋ねた。
「今なんと言ったんだい?」
「待ってましょうと言ったのよ。あんなに早く私を歩かせるには及ばなかったでしょう。」
「そうだね。」
彼らはでこぼこした地面の上に、二人とも寝ころんで待った。ミルハは低い声である歌を歌った。クリストフはそのところどころを口ずさんだ。しかし彼はたえずそれを途切らしては耳を傾けた。
「
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