足音が聞こえるようだ。」
ミルハは歌いつづけていた。
「ちょっと黙っておくれ。」
ミルハは口をつぐんだ。
「いや、なんでもなかった。」
彼女はまた歌い出した。
クリストフはもうじっとしておれなかった。
「道に迷ったのかもしれない。」
「迷ったんですって? 迷うはずがないわ。エルンストさんはどの道でも知ってるから。」
おかしな考えがクリストフの頭に浮かんだ。
「向うが先に着いて、僕たちが来ない前にここから出かけたんじゃないかしら。」
ミルハは仰向けに寝そべり、空を見ながら、歌の中途で、狂人のように笑い出し、息もとまるほどだった。クリストフは言い張った。彼らは停車場へもう行ってるに違いないと言って、そこへ降りてゆきたがった。ミルハはとうとう起き上った。
「そんなことをすればかえってはぐれてしまうだけだわ。……停車場のことなんかなんの話もなかったわ。ここで落合うことになってたんじゃないの。」
彼はまた彼女のそばにすわった。彼女は彼が待ちくたびれてるのを面白がっていた。彼は自分を見守《みまも》ってる彼女の皮肉な眼つきを感じた。彼は真面目《まじめ》に心配しだした――彼ら二人のために心配しだした。彼らを疑ってはいなかった。彼はまた立上った。林の中にもどってゆき、彼らを捜し、彼らを呼んでみよう、と言いだした。ミルハはくすりと笑った。彼女はポケットから、針と鋏《はさみ》と糸とを取出していた。そして帽子の羽飾りを、落着き払って解いたり付けたりしていた。終日でもそこにすわってるつもりらしかった。
「駄目《だめ》よ、駄目よ、お馬鹿《ばか》さんね。」と彼女は言った。「もしあの人たちがここへ来るとしても、仕方なしにやって来るんだとは、あんたは思わなくって?」
彼ははっとした。彼女の方を振向いた。彼女は彼を見ないで、仕事に気を入れていた。彼はそのそばに寄った。
「ミルハ!」と彼は言った。
「え?」と彼女は仕事をやめずに言った。
彼はひざまずいて、彼女をすぐ近くからながめた。
「ミルハ!」と彼はくり返した。
「なによ?」と彼女は尋ねながら、仕事から眼をあげ、微笑《ほほえ》んで彼をながめた。「どうしたの?」
彼女は彼の狼狽《ろうばい》した顔つきを見ながら、嘲るような表情をした。
「ミルハ!」と彼は喉《のど》をひきつらしながら尋ねた、「君の考えを、言ってくれ……。」
彼女は肩をそびやかし、微笑み、そしてまた仕事にかかった。
彼は彼女の手を取り、縫ってる帽子を取り上げた。
「こんなことはよしてくれ、よしてくれ、そして僕に言ってくれよ……。」
彼女は彼を正面《まとも》にじっと見た、そして待った。クリストフの唇《くちびる》の震えてるのが眼についた。
「君は、」と彼はごく低く言った、「エルンストとアーダとが……。」
彼女は微笑んだ。
「もとよりだわ!」
彼は憤激してきっとなった。
「いや、いや、そんなはずはない! 君だってそう思ってるんじゃないだろう。……嘘《うそ》だ、嘘だ!」
彼女は彼の両肩に手を置いて、笑いこけた。
「あなたは馬鹿ね、ほんとにお馬鹿さんだわ。」
彼は激しく彼女を揺すった。
「笑うなよ。なぜ笑うんだい? ほんとうだとしたら笑いごとじゃない。君はエルンストを愛してるじゃないか……。」
彼女は笑いつづけた。そして彼を引寄せながら、接吻《せっぷん》した。彼は我れ知らず、接吻を返した。しかし自分の唇《くちびる》の上に、まだ兄弟の接吻の熱がさめないその唇を感じた時、彼はつと身を引き、彼女の顔を少し押し離した。彼は尋ねた。
「君は知ってたのか? 皆で諜《しめ》し合したのか?」
彼女は笑いながら「そうだ」と言った。
クリストフは声もたてなかった。憤怒《ふんぬ》の身振りもしなかった。もう息もできないかのように口を開いた。眼を閉じて、両手で胸を押えた。心臓が裂けそうだった。それから地面に横たわり、両手で頭をかかえた。そして子供の時のように、嫌悪《けんお》と絶望の発作に打たれた。
あまりやさしくなかったミルハも、彼を気の毒に思った。自然と親愛な憐《あわ》れみの情に駆られ、彼の上に身をかがめ、やさしい言葉をかけ、また、塩剤の壜《びん》を嗅《か》がせようとした。しかし彼は彼女をいやがって押しのけ、彼女が怖《こわ》がったほどにわかに立上った。彼には復讐《ふくしゅう》の力も欲求もなかった。苦悶《くもん》に引きつった顔で彼女をながめた。
「恥知らずめが、」と彼は絶望の底から言った、「君はどんなひどいことをしてるか、わかっていないんだ……。」
彼女は彼を引止めようとした。しかし彼は、それらの破廉恥な行いや、泥《どろ》のような心の奴《やつ》らや、彼らが自分を陥れようとした不倫な共愛などを、いまいましく唾棄《だき》しながら、林の間を逃げていった。涙を流し、身を震わし、嫌悪《けんお》の念にむせびあげていた。彼女を、彼ら皆を、自分自身を、自分の身体を、自分の心を、嫌忌《けんき》していた。軽侮の暴風が彼のうちに荒れていた。その暴風は久しい前から準備されたものだった。低級な思想、卑しい妥協、また彼が数か月来住んでいた腐爛《ふらん》空粗な雰囲気《ふんいき》などにたいして、早晩反動が来るべきであった。しかし愛したい要求は、愛するものに幻をかけたい要求は、その危機をできるだけ遅らしていた。それがにわかに破裂した。その方がかえってよかった。空気と峻烈《しゅんれつ》な純潔との大風が、氷のごとき朔風《さくふう》が、毒気を吹き払った。嫌悪の情は一撃のもとに、アーダにたいする恋愛を滅ぼしてしまった。
アーダはその仕業《しわざ》によって、クリストフにたいする支配権をいっそう強固にうち建て得ると信じていたが、それはこんどもまた、愛してくれてる男にたいする粗雑な不理解を証明するばかりだった。けがれた心をつなぎ止める嫉妬《しっと》の情も、クリストフのような若い驕慢《きょうまん》な純潔な性情には、ただ反発させるだけだった。しかし彼がことに許し得なかったことには、断じて許し得なかったことには、その裏切りの行為はアーダにあっては、情熱から来たものではなく、また、女の理性がたいていは屈服しがちな不条理下劣な出来心、その一つでもほとんどなかった。否――彼は今や了解した――それは彼女にあっては、彼を堕落させ、彼を恥ずかしめ、自分に対抗する彼の道徳心や信念を罰し、彼を自分と同じ水平面に低下さし、彼を自分の足下にひざまずかせ、自分の害毒の力をみずから承認しようという、ひそかな欲望であった。そして彼は嫌忌《けんき》の念をもってみずから尋ねた、だが多くの者のうちにある汚さんとするこの欲求は――自分や他人のうちの純潔なものを汚さんとするこの欲求は、いったいなんであるのか?――表皮の全面にもはや一点の清い場所も残っていない時初めて幸福を感じ、汚穢《おあい》の中にころがって快楽を味わう、それらの豚のような魂は!……
アーダはクリストフが自分のもとにもどってくるのを、二日ばかり待ってみた。それから気をもみだして、甘ったるい手紙を書き送った。もちろんあの出来事については何にも言及しなかった。クリストフは返事もよこさなかった。彼は言葉にも尽せないほどの深い憎悪《ぞうお》でアーダを憎んでいた。彼は自分の生活から彼女を抹殺《まっさつ》していた。彼にとってはもはや彼女は存在していなかった。
クリストフはアーダから解放されていた。しかし自分自身から解放されてはいなかった。みずから心をそらそうとつとめ、過去の清浄強健な静安さに帰ろうとつとめても、その甲斐《かい》がなかった。人は過去にもどり得るものではない。道は進みつづけなければならない。いかにふり返っても、眼にはいるのはただ、通り過ぎて来た場所が、かつて宿った家の遠い煙が、記憶の靄《もや》の中に、地平線に隠れてゆくばかりで、なんの役にもたたない。そして情熱に駆られた数か月くらい、人を昔の魂から遠く引離すものはない。道は急に曲り、景色は変る。自分のあとに残してゆくものに、最後の別れを告げるようなものである。
クリストフはそれを承認することができなかった。彼は過去に向って腕を差出した。昔の孤独な忍諦《にんてい》の魂を復活させようと固執した。しかしその魂はもはや存在していなかった。情熱がもたらす多くの廃墟《はいきょ》こそ、情熱それ自身よりもずっと危険である。クリストフはもう愛すまいとし、恋愛を――しばらくの間――軽蔑《けいべつ》しようとしたが、甲斐《かい》がなかった。彼は恋愛の爪痕《つめあと》を受けていた。心の中に一つの空虚があって、それを満たさなければならなかった。一度味わったことのある者を焼きつくすような、情愛と快楽とのあの恐ろしい要求の代りに、たとい反対のものでもいいから何か他の熱情が必要だった。軽蔑の熱情、驕慢な純潔の熱情、徳操の信念の熱情でも。――しかしそれらのものでもやはり足りなかった。もはや彼の飢えをいやすに足りなかった。それはただ一時のごまかしにすぎなかった。彼の生活は、急激な反動の連続――極端から極端への飛躍の連続だった。あるいは、非人間的禁欲主義の規矩《きく》に生活を押込もうとした。そしてもはや物を食べず、水を飲み、歩行や労苦や不眠で身体を痛めつけ、あらゆる楽しみをみずから禁じた。あるいは、自分のような者には力が真の道徳であると思い込んだ。そして快楽の追求にふけった。しかしいずれの場合においても、彼は不幸であった。彼はもはや一人ではいられなかった。また、もはや一人でいずにはおられなかった。
彼にたいする唯一の救済の道は、真の友情を――おそらくはローザの友情を、見出すことであったろう。彼はその中に身をのがれることができたであろう。しかし両家はまったく不和になっていた。もうたがいに顔を合せることもなかった。ただ一度、クリストフはローザに出会った。彼女はミサから出て来るところだった。彼は彼女に近寄るのを躊躇《ちゅうちょ》した。彼女の方は、彼の姿を見ると、やって来ようとする様子をした。しかし彼がついに、石段を降りてる信者たちの人波を分けて、彼女に近づこうとすると、彼女は眼をそらした。彼がそばまで行くと、彼女は冷やかに挨拶《あいさつ》をして、そのまま通り過ぎた。彼はその若い娘の心の中に、強い冷酷な軽蔑《けいべつ》の念があるのを感じた。彼女がやはり自分を愛していて、それをうち明けたがってることを、彼は感じなかった。彼女はしかしその愛を、罪ででもあるようにみずからとがめていた。クリストフを不良で堕落してると信じ、ますます自分と縁遠いものであると信じていた。かくて二人はたがいに永久に取失った。そしてそれは、どちらにとっても、かえっていいことだったろう。彼女は善良ではあったが、彼を理解するには十分の生活力がなかった。彼は愛情と尊重とをほしがってはいたが、喜びも苦しみも空気もない閉じこもった凡庸《ぼんよう》な生活では、息がつけなかったろう。で二人は苦しむことになるわけだった――たがいに苦しませるのを苦しむことになるわけだった。それで結局、二人を隔てた不運は、往々あるように――常にあるように、強壮で永続する者にとっては、幸運であった。
しかし当座の間、それは二人にとっては大きな悲しみであり、不幸であった。ことにクリストフにとってそうだった。最も多く知力をそなえた者から知力を奪い去り、最も善良な者から善良さを奪い去るかの観がある、その仮借なき徳操、その狭小な心は、彼を苛立《いらだ》たせ、彼を傷つけ、反発心によって彼をより放恣《ほうし》な生活に投げ入れたのである。
クリストフはアーダとともに近郊の酒場をぶらついてるうちに、数人の面白い若者と――浮浪者らと、知り合いになっていた。彼らのやり口の呑気《のんき》さと自由さとは、彼にはさほど不快ではなかった。その一人のフリーデマンというのは、彼と同じく音楽家で、オルガニストであって、三十ばかりの年配、才知もあり、自分の職務にも堪能《たんのう》だった。しかし救うべからざる怠惰者《なまけもの》で、その凡庸
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