。音楽を聞くと愉快を感じていた。兄の音楽を理解してはいなかったが、それを物珍しそうに聴《き》いていた。クリストフは身内の者の同情に甘やかされたことがなかったので、自分の音楽会にときおり弟の姿を見つけると喜んでいた。
しかしエルンストの主な才能は、二人の兄の性質を知りぬいてることと、二人を巧みにあやなすこととであった。クリストフはエルンストの利己心と冷淡とを知り、エルンストが必要な時にしか母や自分のことを考えないと知っていても、いつもその愛情を含んだ素振りに陥れられて、何事でも拒むことは滅多になかった。クリストフは彼の方を、も一人の弟のロドルフよりもずっと好んでいた。ロドルフは端正謹直で、事務に勉励し、徳義心が強く、金を求めることもなく、また金を与えることもなく、毎日曜日には几帳面《きちょうめん》に母に会いに来、一時間留って、自分のことばかりしゃべり、勝手な熱を吹き、自分の家やまた自分に関することはなんでも自慢をし、他人のことは尋ねもせず、また興味も覚えず、そして時間が鳴ると、義務を果したことに満足して、立去ってゆくのであった。こんな人物をこそクリストフは我慢ができなかった。ロドルフが来る時間には、外出するようにしていた。ロドルフはクリストフをねたんでいた。彼は芸術家をすべて軽蔑《けいべつ》していて、クリストフの成功を苦々しく思っていた。それでも彼は、自分の出入する商人間におけるちょっとした評判を、利用せずにはおかなかった。しかしかつて、母にもクリストフにも、それを一言ももらしたことがなかった。クリストフの成功を知らないようなふうをしていた。それに引代え、クリストフに起こった不快な出来事は、些細《ささい》なことまでも皆知っていた。クリストフはそういう下らなさを軽蔑して、さらに気づかないふうを装っていた。しかし彼がもし知ったら平気でおられなかったろうことであるが、そして実際思ってもみなかったことであるが、彼に不利なロドルフの知識の一部分は、エルンストから来たものであった。この狡猾《こうかつ》な少年は、クリストフとロドルフとの違いをよく見分けていた。もちろん、クリストフのすぐれてることはよく認めていたし、彼の廉潔さにたいして多少皮肉な一種の同情さえいだいてるようだった。しかし彼はそれを利用することをはばからなかった。また、ロドルフの悪い感情を軽蔑《けいべつ》しながらも、それに卑屈にも乗じていた。その虚栄心や嫉妬《しっと》心に諛《こ》び、その冷遇をおとなしく甘受し、町の醜聞を、ことにクリストフに関する醜聞を、一々告げ知らした――そんな話なら彼はいつでも不思議なほどよく知っていた。そして彼はまんまと目的を達した。ロドルフは吝嗇《りんしょく》にもかかわらず、クリストフと同様に、エルンストから騙《だま》し取られていた。
かくてエルンストは、公平に二人を利用し愚弄《ぐろう》していた。また二人とも彼を愛していた。
エルンストは日ごろの狡猾にもかかわらず、母のところへ姿を現わした時には気の毒な様子をしていた。彼はミュンヘンからやって来たのだった。そこで彼は最後の地位を見つけ出したが例のとおりすぐに追い払われてしまった。篠《しの》つく雨に打たれたり、どことも知れぬ所に臥《ふ》したりしながら、大半の道程《みちのり》を歩かなければならなかった。泥《どろ》にまみれ、着物は裂け、乞食《こじき》のようなふうをし、また痛々しい咳《せき》をしていた。途中で悪い気管支炎にかかったのである。彼がはいって来るのを見ると、ルイザは心転倒してしまい、クリストフは感動して駆け寄った。エルンストは涙もろかったし、その場の効果に乗じないではおかなかった。そして皆が感情に駆られた。三人ともたがいに抱《だ》き合って泣いた。
クリストフは自分の室を与えた。寝床をあたためられ、病人はそこに寝かされたが、もう死にかけてるかと思われた。ルイザとクリストフとは、その枕頭《ちんとう》につき添って、交替に看護をした。医者、薬剤、室内の十分な火、特別の食物、などが必要だった。
その次にはまた、足から頭までの服装《みなり》を心配してやらなければならなかった。シャツ、靴《くつ》、服、すっかり新しくしてやらなければならなかった。エルンストはされるままに任していた。ルイザとクリストフとは、その費用を償うために、血の汗を流して働いた。二人はその当座非常に困窮していた。新たに家具を整えたし、住居は前と同様に不便でありながら借賃が高かったし、クリストフには弟子が減っていたし、費用はかさんでいた。辛うじてやりくりをしてるだけだった。二人はできるかぎりの手段を尽した。もちろんクリストフは、自分よりもよくエルンストを助け得るような身分にあるロドルフに、頼み込むこともできるはずだった。しかし彼はそうしたくなかった。独力で弟を救わなければ名誉にかかわると考えていた。自分に救う責任があると思っていた、兄としての資格から言って――またクリストフたるべきゆえんから言っても。彼は恥ずかしさに顔を赤らめながら、二週間前には憤然として拒絶した仕事を――ある富裕《ふゆう》な匿名の好事家があって、楽曲を一つ買い取って自分の名前で発表したいというのを、その仲介者がクリストフのところに申込んできたのであったが、それを、こちらから引受けて頼みに行かなければならなかった。ルイザは日当で雇われていって、衣類を繕った。二人ともたがいに犠牲を隠し合っていた。家へもって帰る金については、嘘《うそ》を言い合っていた。
エルンストは病後に、暖炉のすみにうずくまりながら、ある日、激しい咳の間々に、多少の借金があることをうち明けた。でそれも支払われた。だれも彼に小言一つ言わなかった。病人にたいして、悔悟してもどって来た放蕩息子《ほうとうむすこ》にたいして、小言をいうのは親切な処置とは言えないのだったから。そしてエルンストは、艱難《かんなん》のために人が変ったかと思われた。彼は涙声で過去の過《あやま》ちを述べた。ルイザは彼を抱擁しながら、もうそんなことを考えてくれるなと頼んだ。彼は元来甘えっ子だった。愛情をぶちまけてはいつも母に取り入っていた。昔クリストフはそれを多少ねたんだものだった。しかし今では、最も年下で最も弱い子がまた最も愛せられるのを、当然だと思っていた。彼自身も、たいして年齢が違わないにもかかわらず、エルンストを弟というよりもむしろ、ほとんど息子のように見なしていた。エルンストは彼に非常な尊敬の念を示していた。時には、クリストフが負担してる重荷のこと、金の不自由を忍んでること……などをそれとなく言い出すこともあった。しかしクリストフは言葉をつづけさせなかった。エルンストは卑下したやさしい眼つきで、ただそれを認定するだけにした。彼はクリストフが与える助言に賛成した。健康が回復したら、生活を一変して、真面目《まじめ》に働くつもりでいるらしかった。
彼は回復しかけていた。しかし予後は長かった。その濫用された身体には養生が肝要だと、医者は明言した。それで彼は引きつづいて、母のもとにとどまり、クリストフと床を分ち、兄がかせぎ出してくれるパンや、ルイザが工夫してこしらえてくれるちょっとした御馳走《ごちそう》を、うまそうに食べていた。立去るなどとは口にも出さなかった。ルイザとクリストフも、そのことを彼に言わなかった。彼らは、かわいい息子《むすこ》を、かわいい弟を、見出してたいへんうれしがっていた。
クリストフはエルンストと長い夜々をいっしょに過してるうちに、次第に親しい話をもするようになった。彼はだれかに心の中をうち明けたがっていた。エルンストは怜悧《れいり》だった。機敏な頭をもっていて、半分聞けば全体を悟った。彼と話すのは愉快だった。けれどもクリストフは、最も心にかかってることは、自分の恋愛のことは、一言も言い出し得なかった。一種の羞恥《しゅうち》心に引止められた。エルンストはすっかり知っていたが、それを少しも外に表わさなかった。
ある日、すっかり全快したエルンストは、快晴の午後に乗じて、ライン河のほとりをぶらついた。町から少し外へ出て、ある騒々しい飲食店の前を通りかかると、ちょうど日曜のこととて、多くの人がやって来て踊ったり飲んだりしていたが、その中に、大騒ぎをしてるアーダやミルハといっしょに食卓についてる、クリストフの姿が見えた。クリストフも彼の姿を見て、顔を赤らめた。エルンストは慎み深いふうをして、クリストフに近寄らずに通りすぎた。
クリストフはその出会にたいへん困った。そのために、いかなる連中に自分が立ち交ってるかが、さらに強く感じられた。そういうところを弟に見られたのが、心苦しかった。なぜなら、以後はエルンストの品行を批判する権利を失ったばかりでなく、また、兄としての義務について、きわめて高い、きわめて素朴な、多少旧弊な、そして多くの人には滑稽《こっけい》に思われるかもしれないほどの、一つの観念をもっていたからである。自分のようにその義務を欠くと、自分自身の眼にもみずから堕落することになると、彼は考えていた。
その晩、いっしょの居室に二人落ち合った時、彼は昼間の出来事をエルンストが暗に言い出してくれるのを待った。しかしエルンストは慎重に口をつぐんで、やはり待っていた。すると、二人とも着物をぬいでるうちに、クリストフは自分の恋愛をうち明けようと決心した。彼はおどおどしてエルンストの方をながめられなかった。そして気恥ずかしさのあまり、ことさらに乱暴な言い方をした。エルンストは少しも助けてくれなかった。黙っていて、やはり彼の方をながめなかった。それでも彼の様子を見てとっていた。クリストフの拙劣さや無器用な言葉などがいかに滑稽《こっけい》であるかを、少しも見落さなかった。クリストフは思い切ってアーダを名ざすのも、容易ではなかった。そして彼の描き出すアーダの姿は、あらゆる恋人にどれにでもよくあてはまるようなものだった。でもとにかく彼は自分の恋愛を語った。そして心に満ちてる情愛の波に次第に我を忘れてきた。愛することはいかにいいことであるか、闇夜《やみよ》のような生活の中でその光明に出会わないうちは、いかに自分は惨《みじ》めであったか、深い恋愛がなかったらいかに人生はつまらないものであるか、そういうことを語った。相手は真面目《まじめ》くさって耳を傾けていた。程よく返辞をして、少しも尋ねはしなかった。しかし感動したその握手は、クリストフと同様に感じてることを示した。二人は恋愛と人生とに関して意見を交換した。クリストフはいたってよく了解されたことを喜んだ。二人は眠る前に、親しく抱擁しあった。
クリストフは多くの気がねと遠慮とをもってではあったが、自分の恋愛をエルンストにうち明ける習慣になった。エルンストの慎み深さは彼を安心さしていた。アーダに関する不安をも、彼はそれとなく知らせた。しかし彼はかつて彼女をとがめなかった。自分自身をとがめていた。そして眼に涙を浮かべながら、アーダを失うようなことがあったらもう生きてはおられないだろうと言った。
彼はエルンストのことをアーダに話すのも忘れなかった。そして彼の怜悧《れいり》と美貌《びぼう》とをいつもほめた。
エルンストはアーダに紹介してくれとは、クリストフに進んで申し出なかった。自分の知ってる者はだれもいないと言いながら、寂しそうに室に閉じこもって、出かけることを肯《がえん》じなかった。クリストフは日曜日に、弟が家に残ってるのに、アーダとなお野外遊歩をつづけてるのを、みずからとがめた。それでも、恋人と二人っきりにならないと苦しかった。しかし自分の利己主義もやましかった。そしてエルンストをいっしょに来ないかと誘った。
紹介は、アーダの室の入口で、階段の上でなされた。エルンストとアーダは丁重に挨拶《あいさつ》をかわした。アーダはいつもつきっきりのミルハを従えて、外に出て来た。ミルハはエルンストを見ると、ちょっと驚きの声をたてた。エルンストは微笑《ほほえ》み、近寄ってゆき、ミルハに接吻
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