あんたを愛さなくとも、やはり私を愛してくださるの?」
「ああ。」
「そして、もし私が他《ほか》の人を愛しても、やはり私を愛してくださるの?」
「さあ、それは僕にはわからない……そうは思えない……がいずれにしても、お前は、僕が愛すると言う最後の女だろう。」
「でも何か今と変ることがあって?」
「沢山ある。僕もたぶん変るだろう、お前もきっと変ってくる。」
「私が変ったら、どうなるの?」
「たいへんなことになるさ。僕は今のままお前を愛してるんだ。もしお前がまったく別な者になったら、僕はもうお前を愛するかどうか受け合えない。」
「あんたは愛していないのよ、愛していないのよ! そんなへりくつが何になって! 愛するか愛しないか、どっちかだわ。もしあんたが私を愛しているんなら、私が何をしようと、いつでも変らず、そのまま私を愛してくださるはずだわ。」
「それは畜生のような愛し方だ。」
「私はそういうふうに愛してもらいたいのよ。」
「それじゃお前は人を見違えたんだ、」と彼は戯れて言った、「僕はお前が求めるような者じゃない。そんなことは、僕にはしようたってできやしない。それにまた僕はしようとも思わない。」
「あんたは利口なのをたいそう御自慢ね。私よりも自分の知恵の方を余計愛しているんだわ。」
「僕はお前を愛してるんだ、ひどいことを言う奴《やつ》だね、お前が自分の身を愛してるよりもっと深くお前を愛してるんだ。お前が美しくって善良であればあるほど、ますます僕はお前を愛するんだ。」
「まるで学校の先生みたいね。」と彼女はむっとして言った。
「だってさ、僕は美しいものが好きなんだ。醜いものはきらいだ。」
「私のうちにあっても?」
「お前のうちにあるとことにそうだ。」
 彼女は荒々しく足をふみ鳴した。
「私は批評されたかありません。」
「それじゃ、僕がお前をどう思ってるか、そしてどんなに愛してるか、それを不平言うがいいよ。」と彼は彼女の心を和らげるためにやさしく言った。
 彼女は彼の腕に抱かれるままになって、微笑《ほほえ》みをさえ浮かべ、彼に接吻《せっぷん》を許した。しかしやがて、もう忘れたころだと彼が思ってる時に、彼女は不安そうに尋ねた。
「あんたは私のどういうところを醜いと思ってるの?」
 彼は用心してそれを彼女に言わなかった。卑怯《ひきょう》な答えをした。
「何にも醜いと思ってるところはない。」
 彼女はちょっと考え、微笑み、そして言った。
「ねえ、クリストフ、あんたは嘘《うそ》はきらいだと言ったわね。」
「軽蔑《けいべつ》してるよ。」
「道理《もっとも》だわ、」と彼女は言った、「私も軽蔑しててよ。それに、私は安心だわ、決して嘘をつかないから。」
 彼はその顔をながめた。彼女は本気で言ってるのだった。その無自覚さが彼の心をくつろがした。「ではね、」と彼女は彼の頸《くび》に両腕を巻きつけながらつづけて言った、「もし私が他の人を愛したら、そしてあんたにそう言ったら、なぜあんたは私を恨むの?」
「よしてくれよ、僕をいつも苦しめるのを。」
「あんたを苦しめるんじゃないわ。他の人を愛してると私は言ってるんじゃないのよ、愛してはいないとさえ言ってるわ。……でもこれから先、もし愛したら……?」
「まあ、そんなことは考えないとしようや。」
「私は考えたいのよ。……あんたは私を恨まないの? 私を恨むことができないの?」
「僕は恨まないだろう、お前と別れるだろう。それっきりだ。」
「別れる? どうしてなの? 私がまだあんたを愛していても……。」
「他の男を愛しながら?」
「むろんよ。そんなことはよくあるわ。」
「なに、僕たちにはそんなことが起こるものか。」
「なぜ?」
「なぜって、お前が他の男を愛する時には、もう僕はお前を、ちっとも、もうちっとも、愛さないだろうからさ。」
「先刻《さっき》はわからないと言ってたじゃないの。……それごらんなさい、あんたは私を愛さないんだわ!」
「そうかもしれない。その方がお前のためにはいいよ。」
「というのは?……」
「お前が他の男を愛する時に、もし僕がお前を愛していたら、お前にも、僕にも、またその男にも、始末が悪くなるだろうからさ。」
「そうら!……あんたはもう無茶苦茶よ。では私は、一|生涯《しょうがい》あんたといっしょになってなけりゃならないもんなの?」
「安心おし、お前は自由だよ。いつでも僕と別れたい時には別れるがいいさ。ただ、それは一時の別れじゃなくて、永久のおさらばだ。」
「でも、やはりあんたを愛してるとしたら、この私が。」
「愛し合ってる時には、たがいに一身をささげ合うものなんだ。」
「じゃあ、あんたからささげてちょうだい!」
 彼はその利己主義には笑わずにおれなかった。彼女も笑った。
「片方だけの献身は、」と彼は言った、「片恋になるだけだ。」
「そんなことはないわ。両方からの恋になるものよ。もんあんたが私に身をささげてくださるなら、私はもっとあんたを愛してあげるわ。そして、ねえ、御自分の方だって考えてごらんなさい。自分は身をささげたからといって、どんなに深く私を愛するかしれないわ、どんなに幸福になるかしれないわ。」
 二人は、ちょっと気をそらして意見の真面目《まじめ》な相違を忘れたのに、満足の笑みをもらしていた。
 彼は笑顔をして、彼女を見守《みまも》った。彼女は心の底では、自分で言ってるとおりに、今すぐにクリストフと別れたくは少しもなかった。彼はしばしば彼女を怒らせ厭がらせはしたが、彼女は彼のような献身がいかに貴《とうと》いかを知っていた。また彼女はだれも他の男を愛してはいなかった。戯れにあんなことを言ったのは、半ばは、それが彼に不愉快であることを知っていたからであり、半ばは、子供がきたない水の中をかき回して面白がるように、曖昧《あいまい》な下品な考えをもてあそぶことが愉快だったからである。彼はそれを知っていた。別に彼女を憎まなかった。しかし彼は、それらの不健全な議論に飽《あ》き、自分が愛しておりまた恐らく愛されている、その不安定な混濁した性質の女と、暗々裏に行う闘《たたか》いに飽いていた。彼女のことをみずから欺くためになさなければならない努力に、彼は飽いていたし、時には泣きたいほどうんざりしていた。彼は考えた。「なぜ、なぜ彼女はこうなんだろう? なぜ人間はこうなんだろう? いかに人生はつまらないものか!……」と同時にまた彼は微笑《ほほえ》みながらながめた、彼の方をのぞき込んでるきれいな顔を、その青い眼、つややかな色、にこやかで饒舌《じょうぜつ》で、多少愚かで、ぬれた歯並と舌とのあざやかな輝きを見せて、半ば開いている口を。二人の唇《くちびる》はほとんど触れ合っていた。しかも彼は、遠くから、ごく遠くから、他の世界からのように、彼女をながめていた。見ると、彼女は次第に遠ざかり、霧の中に消えていった……。次にはもう見えなかった。その声も聞こえなかった。彼は一種の快い忘却のうちに陥ってゆき、その中で、音楽のことや、夢想のことや、アーダに無関係な種々のことを考えた。一つの曲調が聞こえてきた。彼は静かに作曲にふけった……ああ、美しい音楽!……かくも悲しい、堪えがたいまでに悲しい、しかも親切な、やさしい音楽……ああなんと快いことか……これだ、これだ……。他は皆真実のものではなかった……。
 彼は腕を揺すられた。一つの声が叫んでいた。
「まあどうしたの? まったく狂人だわ。どうして私をそんなに見てるの? なぜ返辞をしないのよ?」
 彼は自分をながめてる眼をまた見出した。だれなのか!……ああそうだ……。――彼はほっと息をした。
 彼女は彼を観察していた。彼が何を考えてるか知ろうとつとめていた。彼女には理解ができなかった。しかしいくらどんなことをしても駄目《だめ》だと感じた。彼をすっかり手にとらえることができなかった。いつでも彼が逃げ出せる門があった。彼女はひそかに苛立《いらだ》っていた。
「なぜ泣くの?」と彼女は一度、彼が他の世界へのそういう旅からもどってくる時に尋ねた。
 彼は眼に手をやった。眼がぬれてることを知った。
「僕にはわからない。」と彼は言った。
「なぜ返辞をしないの? もう三度も同じことを言ったのよ。」
「いったいどういうんだい?」と彼はやさしく尋ねた。
 彼女はまた愚にもつかない議論をもち出した。
 彼は飽《あ》き飽きしてる身振りをした。
「ええ、よすわ。」と彼女は言った。「ただ一言《ひとこと》だけ!」
 そしてますます盛んにやり出した。
 クリストフは怒って身体を揺すった。
「そんなにけがらわしい話はよしてくれ!」
「冗談を言ってるのよ。」
「もっとりっぱな話の種を捜しておいでよ。」
「じゃあせめて理由を言ってごらんなさい。なぜそれが気に入らないか言ってごらんなさい。」
「理由があるもんか。なぜ肥料《こやし》が臭いかには、議論の余地はない。肥料は臭い、ただそれっきりだ。僕は鼻をつまんで逃げ出すばかりさ。」
 彼は憤然として立去った。そして冷たい空気を呼吸しながら、大胯《おおまた》に歩き回った。
 しかし彼女は、一遍も、二遍も、十遍も、同じことをやりだした。彼の本心をいやがらせ傷つけるようなものなら、なんでも議論のうちに取り入れた。
 それはまったく、人をからかって面白がる神経衰弱症の娘の、不健全な戯れにすぎないものだと、彼は思っていた。彼は肩をそびやかし、あるいは聞かないふうをした。彼女の言葉を真面目《まじめ》にはとらなかった。でもやはり、彼女を投げ捨ててしまいたいような気になることもあった。なぜなら、神経衰弱症と神経衰弱患者とは、最も彼の趣味に合わなかったからである……。
 しかし彼は十分も彼女と離れていれば、もうすっかり不快なことを忘れてしまうのだった。そして新しい希望と幻影とをいだいて、アーダのところへもどっていった。彼は彼女を愛していた。愛は不断の信仰の行為である。神が存在しようとすまいと、そんなことはほとんど構わない。信ずるから信ずるのだ。愛するから愛するのだ。多くの理由を要しない!……

 クリストフがフォーゲル一家の者と喧嘩《けんか》してからは、その同じ家に住んでることができなくなったので、ルイザは余儀なく、息子《むすこ》と自分とのために他の住居を捜して引移った。
 ある日、クリストフの末弟のエルンストが、ふいに家へ帰って来た。だいぶ前から消息不明になっていたのだった。何かをやるたびごとに、相次いで追い出されて、なんらの職をももっていなかった。財布は空《から》であり、健康は害されていた。それで彼は、いったん古巣へ立ちもどって、新たに出直すがいいと考えたのだった。
 エルンストは、二人の兄とはどちらとも、仲が悪くなかった。二人からあまり敬重されてはいず、自分でもそれを知っていた。しかしそんなことはどうでもいいことだったので、別に恨みもしなかった。二人もまた彼を憎んではいなかった。憎んでも無駄だったろう。どんなことを言ってやっても、皆彼からすべり落ちて少しも刃が立たなかった。彼は媚《こび》を含んだ美しい眼で微笑《ほほえ》み、つとめて悔悟の様子を装い、他のことを考え、首肯し、感謝し、そしてしまいにはいつも、兄のどちらかから金をしぼり取っていた。クリストフは心ならずも、この道化た愛敬者に愛情をいだいていた。彼の顔だちは、クリストフと同じく、否より以上に、父のメルキオルに似ていた。クリストフと同様に背が高く頑丈《がんじょう》であって、整った顔つき、淡懐な様子、澄んだ眼、真直な鼻、にこやかな口、美しい歯、愛想のいい態度、をもっていた。クリストフは彼を見ると、心が解けてしまって、前から用意しておいた小言も半分しか言えなかった。自分と同じ血を分け、少くとも容姿の点では自分の名誉となる、その美しい少年にたいして、クリストフは本来、一種親愛の情を感じていた。悪い奴だとは思っていなかった。それにエルンストは決して馬鹿ではなかった。教養はなかったが、才智がないではなかった。精神的な事柄に興味を覚え得ないでもなかった
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