かつてその髪に触れることもなし得なかったし、その身体の香りを知ることも永久にないだろう。もう何も残っていない。すべて溶け去ってしまった。土地からすべて奪われてしまった。彼女を護《まも》ることもしなかった……。
 そして、仇気《あどけ》なく眠っている女をのぞき込み、その顔だちをうかがいながら、好意のない眼でながめていると、彼女は彼の視線を感じた。彼女はじっと見られてるのが不安になり、ようやく元気を出して、重い眼瞼《まぶた》を上げ、微笑《ほほえ》んだ。眼覚めたばかりの子供のように、よく回らぬ舌の先で、彼女は言った。
「見ちゃ嫌《いや》よ、見っともないから……。」
 彼女は眠気にうちまけて、またすぐにがっくりとなり、なお微笑み、口ごもった。
「ああ、ほんとに……ほんとうに眠いのよ!」
 そしてまた夢にはいった。
 彼は笑わないではおられなかった。その子供らしい口と鼻とにやさしく接吻した。それから、その大きな小娘の寝姿をなおちょっとながめた後、その身体をまたぎ越して、音をたてずに起上った。彼が寝床から出ると、彼女はほっと溜息をついて、あいた寝台のまん中に、長々と身を伸した。彼は身繕いをしながら
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