のことを考えた。通りすぎた小舟のことを考えた。それにはいっしょに乗っていた、彼らが――彼と――彼女と……。彼女とは?……それは今彼のそばに眠ってるこの女ではない。ただ一人の女、恋しい女、死んでる憐《あわ》れな小さな女。――それならばこの女は何者であるか? どうしてここにいるのか? どうして二人は、この室に、この寝台に、やって来たのか? ながめても、見覚えがない。見知らぬ女だ。昨日の朝までは、彼にとって彼女は存在していなかった。彼は彼女のことを何を知っているか?――怜悧でないことを知っている。善良でないことを知っている。血の気の少ない寝脹《ねば》れた顔をし、低い額をし、息をするために口を開き、ふくれつき出た唇《くちびる》で鯉《こい》のような口つきをしていて、今は美しくないことを知っている。自分が少しも愛していないことを知っている。そして考えれば考えるほど、切ない悩みに彼は胸を刺し通される。最初の瞬間から、この見知らぬ唇に接吻《せっぷん》したのだ。出会った最初の夜から、この無関係な美しい身体を抱いたのだ。――それなのに、愛する彼女にたいしては、自分のそばに彼女が生きまた死ぬのをながめてき、
前へ 次へ
全295ページ中205ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング