分の一身を感じない。無限が私をとり巻いている。オリンポスの平安に満ち充《み》ちた静かな大きい眼をしてる彫像、それの魂を私は今もっている……。」
 二人はまた眠りの時代に陥ってゆく。そして耳慣れた曙《あけぼの》の音が、遠い鐘、過ぎゆく小舟、水のしたたる二本の櫂《かい》、道行く人の足音が、二人に生きてることを思い起こさせながら、それを二人に味わわせながら、そのまどろめる幸福を、乱すことなく愛撫《あいぶ》してゆく……。

 窓の前に船の音がしてきたので、うとうとしていたクリストフは我れに返った。きまった職務の間に合うように町へ帰るため、七時には出かけようという約束だった。彼はささやいた。
「聞こえるだろう?」
 彼女は眼を開かなかった。ただ微笑《ほほえ》んで、唇を差出し、元気を出して彼を抱擁し、それからまた頭を彼の肩の上に落した。……窓ガラスから彼は、船の煙筒や、人なき甲板や、ほとばしり出る煙が、白い空にすべってゆくのを見た。彼はまたうっとりとした……。
 気づかないうちに一時間たった。時計の音を聞いて、彼ははっとした。
「アーダ……、」と彼は女の耳にささやいた、「ね、アーダ、」と彼はくり返
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