。それまでは、そんなことは思いもしなかったのである。彼は閃光《せんこう》的にそれを描き出すことができ、それにすっかり光被された。しかしそれも、長い期待と暗黒とをもってして初めて得られるのであった。
「憐《あわ》れなザビーネよ!」と彼は考えた、「彼らは皆お前を忘れている。お前を愛し、永久にお前を心にとどめているのは、私だけだ、おう私の貴い宝よ! 私はお前をもっている、お前をとらえている。決してお前をのがすまい!……」
 彼はそういうふうに言っていた。なぜならすでに彼女は彼からのがれかかっていたから。あたかも水が指の間から漏るように、彼女は彼の考えから逃げ出しかかっていた。彼はいつも忠実に密会にやって来た。彼は彼女のことを考えようとして、眼をつぶった。しかし往々にして彼は、三十分の後に、一時間の後に、時には二時間の後に、自分が何にも考えていなかったことに気づいた。低地の物音、水門に水の奔騰する音、丘の上に草を食《は》んでる二匹の山羊《やぎ》の鈴の音、彼が寝ころがってるすぐそばの細い小さな木立を過ぎる風の音、そういうものが、海綿のように粗《あら》い柔軟な彼の考えを浸していた。彼は自分の考えに
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