、形見の品も――なんにも彼はもたなかった。自分の中にか、自分の外にか、どこに彼女をとらえ彼女を捜したらいいか?……ただ虚無! 彼女について彼に残ってるものは、彼女にたいする彼の愛ばかりであった。彼に残ってるものは彼自身ばかりであった……。――それでもなお、壊滅の手から彼女をもぎ取らんとする激しい欲望と死を否定せんとする欲求のために、彼はその最後の遺品に執着して、狂信的な一句の中に没入した。
妾《わらわ》は死にたるに非ず、住居《すまい》を変えたるなり。
泣きつつ妾を見給う君のうちに、妾は生きて残れり。
愛せられし魂は姿を変うるも、恋人の魂の外には出でじ。
彼はそれらの崇高な言葉を読んだことはかつてなかった。しかしそれは彼のうちにあったのである。人は皆順次に、幾世紀となく十字架に上ってゆく。各自に苦悶を見出し、幾世紀となき絶望的な希望を見出す。かつて生存した人々、かつて死とたたかい、死を否定し――そして死んだ人々、彼らの足跡をそのまま、各自にたどってゆく。
彼は家に閉じこもった。向うの家の窓を見ないために、終日雨戸を閉ざしておいた。彼はフォーゲル一家の者を避けた。彼らが厭で
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