二人はまた泣き出した。
 フォーゲル夫人の声がまたローザを呼んだ。クリストフはふたたび一人残って、逝去《せいきょ》のその日々に立ちもどってみた。一週間、もう一週間になっていた……。嗚呼《ああ》、あの女《ひと》はどうなったのだろう。その週間は、なんと雨が多いことだったろう、地上では!……そして彼は、その間じゅう笑い楽しんでいたではないか!
 彼はポケットの中に、絹紙に包んだ物を感じた。彼女の靴《くつ》につけてやるためにもって来た銀の留金《とめがね》であった。靴から出てる小さな足先に手を押し当てた夕のことを、彼は思い出した。その小さな足も、今はどこにあるのか。どんなにか冷えきってることだろう!……その生あたたかい接触の思い出だけが、あの愛する身体から得た唯一のものであることを、彼は考えた。彼はかつてその身体に触れ得なかった、それを両腕に抱き取り得なかった。彼女はまったく識《し》られないままで去っていった。彼女については、魂も肉体も、彼は少しも知るところがなかった。彼女の形態や生命や愛について、彼は一つの思い出も持っていなかった。……彼女の愛?……その証拠さえあったのであろうか。……手紙も
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