が、漕いではいなかった。ザビーネはクリストフの正面に艫《とも》の方にすわって、兄と話をし、クリストフをながめていた。兄との対話のために、二人は安らかに見かわすことができた。もし言葉が途切れたら二人は見かわすことができなかったろう。その嘘《うそ》の言葉は、こう言うようだった、「私が見てるのはあなたではありません。」しかし眼つきはたがいにこう言っていた、「あなたはどういう人? 私が愛してるあなたは!……どういう人だろうと、私が愛してるあなた!……」
空は曇ってきた。霧が牧場から立ちのぼり、川は水蒸気をたて、太陽は靄《もや》の中に消えていった。ザビーネは震えながら、小さな黒い肩掛で肩と頭とを包んだ。彼女は疲れてるらしかった。舟が岸に沿うて、枝をさし伸べた柳の下にすべってゆく時には、彼女は眼を閉じた。ほっそりした顔が蒼ざめていた。唇には苦しそうな皺《しわ》が寄っていた。彼女はもう身動きもしなかった。苦しんでる――たいへん苦しんだ――死んでる、ようだった。クリストフは心がしめつけられた。彼は彼女の方に身をかがめた。彼女は眼を開き、クリストフの不安な眼が問いかけてるのを見、それに微笑《ほほえ》み
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