のことを考えた。通りすぎた小舟のことを考えた。それにはいっしょに乗っていた、彼らが――彼と――彼女と……。彼女とは?……それは今彼のそばに眠ってるこの女ではない。ただ一人の女、恋しい女、死んでる憐《あわ》れな小さな女。――それならばこの女は何者であるか? どうしてここにいるのか? どうして二人は、この室に、この寝台に、やって来たのか? ながめても、見覚えがない。見知らぬ女だ。昨日の朝までは、彼にとって彼女は存在していなかった。彼は彼女のことを何を知っているか?――怜悧でないことを知っている。善良でないことを知っている。血の気の少ない寝脹《ねば》れた顔をし、低い額をし、息をするために口を開き、ふくれつき出た唇《くちびる》で鯉《こい》のような口つきをしていて、今は美しくないことを知っている。自分が少しも愛していないことを知っている。そして考えれば考えるほど、切ない悩みに彼は胸を刺し通される。最初の瞬間から、この見知らぬ唇に接吻《せっぷん》したのだ。出会った最初の夜から、この無関係な美しい身体を抱いたのだ。――それなのに、愛する彼女にたいしては、自分のそばに彼女が生きまた死ぬのをながめてき、かつてその髪に触れることもなし得なかったし、その身体の香りを知ることも永久にないだろう。もう何も残っていない。すべて溶け去ってしまった。土地からすべて奪われてしまった。彼女を護《まも》ることもしなかった……。
 そして、仇気《あどけ》なく眠っている女をのぞき込み、その顔だちをうかがいながら、好意のない眼でながめていると、彼女は彼の視線を感じた。彼女はじっと見られてるのが不安になり、ようやく元気を出して、重い眼瞼《まぶた》を上げ、微笑《ほほえ》んだ。眼覚めたばかりの子供のように、よく回らぬ舌の先で、彼女は言った。
「見ちゃ嫌《いや》よ、見っともないから……。」
 彼女は眠気にうちまけて、またすぐにがっくりとなり、なお微笑み、口ごもった。
「ああ、ほんとに……ほんとうに眠いのよ!」
 そしてまた夢にはいった。
 彼は笑わないではおられなかった。その子供らしい口と鼻とにやさしく接吻した。それから、その大きな小娘の寝姿をなおちょっとながめた後、その身体をまたぎ越して、音をたてずに起上った。彼が寝床から出ると、彼女はほっと溜息をついて、あいた寝台のまん中に、長々と身を伸した。彼は身繕いをしながら
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