分の一身を感じない。無限が私をとり巻いている。オリンポスの平安に満ち充《み》ちた静かな大きい眼をしてる彫像、それの魂を私は今もっている……。」
 二人はまた眠りの時代に陥ってゆく。そして耳慣れた曙《あけぼの》の音が、遠い鐘、過ぎゆく小舟、水のしたたる二本の櫂《かい》、道行く人の足音が、二人に生きてることを思い起こさせながら、それを二人に味わわせながら、そのまどろめる幸福を、乱すことなく愛撫《あいぶ》してゆく……。

 窓の前に船の音がしてきたので、うとうとしていたクリストフは我れに返った。きまった職務の間に合うように町へ帰るため、七時には出かけようという約束だった。彼はささやいた。
「聞こえるだろう?」
 彼女は眼を開かなかった。ただ微笑《ほほえ》んで、唇を差出し、元気を出して彼を抱擁し、それからまた頭を彼の肩の上に落した。……窓ガラスから彼は、船の煙筒や、人なき甲板や、ほとばしり出る煙が、白い空にすべってゆくのを見た。彼はまたうっとりとした……。
 気づかないうちに一時間たった。時計の音を聞いて、彼ははっとした。
「アーダ……、」と彼は女の耳にささやいた、「ね、アーダ、」と彼はくり返した、「八時だよ。」
 彼女はなお眼を閉じたまま、不機嫌《ふきげん》そうに眉《まゆ》と口とを渋めた。
「眠らしてちょうだいよ。」と彼女は言った。
 そして彼の腕から身を離し、疲れはてた溜息《ためいき》を漏らしながら、彼に背を向け、向う向いたまままた眠った。
 彼は彼女の傍《かたわ》らに寝ていた。同じあたたかさが二人の身体を流れていた。彼は夢想にふけり始めた。血潮は穏かな大きい波をなして流れていた。清朗な感覚は微妙な清新さでごくわずかな印象をも感じていた。彼は自分の力と青春とを楽しんだ。男子たるの誇りを感じた。自分の幸福に微笑《ほほえ》んだ。そして自分の孤独を感じた、いつものとおりの孤独を、おそらくはなおいっそうの孤独を。しかしなんらの悲哀もなく、崇高な寂寥《せきりょう》の孤独だった。もはや熱気もなかった。もはや陰影もなかった。自然は彼の朗らかな魂のうちに自由に反映していた。仰向けに横たわり、窓に面し、輝く霧を含んだまぶしい空気の中に眼をおぼらして、彼は微笑んだ。
「生きることはなんといいことだろう!……」
 生きる!……一|艘《そう》の小舟が通った。……彼は突然、もう生きていない人たち
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