憤った。その考えは彼の望みに従おうとつとめ、故人の面影を固定させようとつとめた。しかし飽き疲れうっとりしてまた力を失い、安堵《あんど》の溜息《ためいき》をつきながら、種々の感覚の怠惰な波動にふたたび身を任すのであった。
 彼は自分の遅鈍な気分を振いたたした。ザビーネを求めて田舎《いなか》を歩き回った。その笑顔が宿ったことのある鏡の中に彼女を求めた。その手が水に浸ったことのある川縁に彼女を求めた。しかし鏡も水も、彼自身の反映をしかもたらさなかった。歩行の刺激、新鮮な空気、脈打つ強健な血潮、それらは彼のうちに音楽を呼び覚《さま》した。彼は自分を欺こうとした。
「ああザビーネ!……」と彼は嘆いた。
 彼はそれらの歌を彼女にささげた。自分の愛と苦しみとを、頭のうちに蘇《よみがえ》らせようと企てた。……しかしいかにしても甲斐《かい》がなかった。愛と苦しみとはよく蘇った。しかし憐《あわ》れなザビーネはそれにかかわりをもっていなかった。愛と苦しみとは未来の方をながめていて、過去の方をながめてはいなかった。クリストフはおのれの青春にたいしてはなんらの手向いもできなかった。活気は新たな激しさをもって彼のうちに湧《わ》き上ってきた。彼の悲痛、愛惜、清浄な燃えたつ愛、抑圧された欲望は、彼の熱を高進さしていった。喪の悲しみにもかかわらず、彼の心臓は快い激しい律動で鼓動していた。いきり立った歌が酔い狂った音律で踊っていた。すべてが生命を祝頌《しゅくしょう》し、悲しみさえも祝いの性質を帯びていた。クリストフはきわめて率直だったから、みずから幻を描きつづけることができなかった。そして彼はおのれを蔑《さげす》んだ。しかし生命は彼に打ち勝った。死に満ちた魂と生命に満ちた身体とを持って、彼は悲しみながら、復活の力に身を任せ、狂妄《きょうもう》な生の喜びに身を任した。強者にあっては、苦悶《くもん》も、憐憫《れんびん》も、絶望も、回復できない亡失の痛切な負傷《いたで》も、死のあらゆる苦痛も、猛烈な拍車で彼らの脇腹《わきばら》をこすりながら、この生の喜びを刺激し煽動《せんどう》するばかりである。
 かつまたクリストフは、ザビーネの影が閉じ込められてる近づきがたい侵しがたい奥殿を、自分の魂の底の深みにもっているということを、よく知っていた。生命の急流もこの奥殿を流し去ることはできないだろう。人は皆おのおの、お
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