にいると感ずるのは、一人きりの時だった。とくに、彼女の思い出に満ちたその土地のまん中の、人目の遠い、丘の上の、その隠れ場所にいる時くらい、彼女をすぐそばに感ずることはなかった。彼は数里の道を歩いてやって来、あたかもある密会へおもむくかのように胸をどきつかせながらそこへ駆け上った。それは実際一つの密会だった。そこへ着くと、彼は地面に――彼女[#「彼女」に傍点]の身体が横たわってるその同じ地面に――身を横たえた。彼は眼をつぶった。彼女が彼のうちに沁《し》み込んできた。彼は彼女の顔だちを見なかった、声を聞かなかった。がその必要はなかった。彼女は彼のうちにはいり込み、彼女は彼をとらえ、彼は彼女を自分のものにした。そういう熱烈な幻覚状態のうちにあっては、彼は彼女といっしょにいるということ以外には、もう何事も意識しなかった。
その状態は長くはつづかなかった。――実を言えば、彼がまったく真実だったのはただ一回だけだった。翌日からは、早くも意志が加わった。そしてそれ以来、クリストフはその状態を復活させようといたずらにつとめた。その時になって彼は初めて、ザビーネのはっきりした姿を心に描き出そうと考えた。それまでは、そんなことは思いもしなかったのである。彼は閃光《せんこう》的にそれを描き出すことができ、それにすっかり光被された。しかしそれも、長い期待と暗黒とをもってして初めて得られるのであった。
「憐《あわ》れなザビーネよ!」と彼は考えた、「彼らは皆お前を忘れている。お前を愛し、永久にお前を心にとどめているのは、私だけだ、おう私の貴い宝よ! 私はお前をもっている、お前をとらえている。決してお前をのがすまい!……」
彼はそういうふうに言っていた。なぜならすでに彼女は彼からのがれかかっていたから。あたかも水が指の間から漏るように、彼女は彼の考えから逃げ出しかかっていた。彼はいつも忠実に密会にやって来た。彼は彼女のことを考えようとして、眼をつぶった。しかし往々にして彼は、三十分の後に、一時間の後に、時には二時間の後に、自分が何にも考えていなかったことに気づいた。低地の物音、水門に水の奔騰する音、丘の上に草を食《は》んでる二匹の山羊《やぎ》の鈴の音、彼が寝ころがってるすぐそばの細い小さな木立を過ぎる風の音、そういうものが、海綿のように粗《あら》い柔軟な彼の考えを浸していた。彼は自分の考えに
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