、少くとも一品を、たった一品でも、自分に与えてくれと願いたかった。しかしどうして粉屋にそれを願われよう? 彼にとっては粉屋は赤の他人であった。彼の恋は彼女でさえも知ってはいなかった。それをどうして今他の人に示されよう? それにまた、もし一言言いかけたら、すぐに泣き出すかもしれなかった。……否々、黙っていなければならない、全部の消滅をただじっとうちながめていなければならない、その難破から名残《なご》りの一片を救い出すためには、何にもなすことができずに……。
そしてすべてが済んだ時、家が空《から》になった時、粉屋の後ろに表門がしめられた時、荷車の車輪の響きが窓ガラスを震わしながら遠ざかった時、その響きが消えてしまった時、彼は床《ゆか》に倒れ伏して、もはや一滴の涙もなく、苦しもうとのあるいはたたかおうとの考えもなく、冷えきってしまい、彼自身死んだようになった。
扉《とびら》をたたく者があった。彼はじっとしていた。また扉がたたかれた。彼は鍵《かぎ》をかけて閉じこもることを忘れていた。ローザがはいってきた。床の上に横たわっている彼を見て、彼女は声をたて、恐れて立止った。彼は憤然と頭をもたげた。
「何? なんの用です? 構わないでください。」
彼女は出て行かなかった。扉によりかかって躊躇《ちゅうちょ》しながらたたずんでいた。くり返して言った。
「クリストフさん……。」
彼は黙って立上った。そういう所を彼女に見られたのが恥ずかしかった。手で埃《ほこり》を払いながら、きびしい調子で尋ねた。
「いったいなんの用です?」
ローザは気をくじかれて言った。
「御免なさい……クリストフさん……はいって来たのは……もってきてあげたのよ……。」
彼は彼女が手に一品をもってるのを見た。
「これなの。」と彼女は言いながらそれを彼に差出した。「ベルトルトさんに願って、形見の品をもらったのよ。あなたがお喜びなさるだろうと思って……。」
それは小さな銀の鏡であった。あの女《ひと》が幾時間も、おめかしをするというよりもむしろなまけて、顔を映すのを常としていた、懐中鏡であった。クリストフはその鏡を取った、それを差出している手を取った。
「おう、ローザ!……」と彼は言った。
彼はひしと彼女の親切さを感じ、自分の不正さを感じた。情に激した様子で、彼女の前にひざまずき、その手に唇《くちびる》をつけた
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