「許しておくれ……許しておくれ……。」と彼は言った。
 ローザには、初めはわからなかった、それから、よくわかりすぎた。彼女は真赤《まっか》になり、泣きだした。彼の言う意味はこうであることがわかった。
「僕が悪くとも許しておくれ……あなたを愛さなくとも許しておくれ……僕にできなくとも許しておくれ……あなたを愛することができなくとも、いつまでもあなたを愛することがなかろうとも!……」
 彼女は手を引込めなかった。彼が接吻《せっぷん》してるのは自分ではないことを、彼女は知っていた。そして彼は、ローザの手に頬《ほお》を押しあてたまま、彼女に意中を読み取られてることを知りながら、熱い涙を流した。彼女を愛することができないのに、彼女を苦しめるのに、苦《にが》い悲しみを感じていた。
 二人は室内の薄ら明りの中に、二人とも泣きながら、そのままじっとしていた。
 ついに彼女は手を放した。彼はなおつぶやいていた。
「許しておくれ!……」
 彼女はやさしく彼の頭に手をのせた。彼は立上った。二人は黙って接吻し合った。たがいに唇の上に涙の辛い味を感じた。
「長く友だちになりましょう。」と彼は低く言った。
 彼女はうなずいた。そしてあまりの悲しさに口もきけないで、彼と別れた。
 世の中は悪くできてるものだと彼らは考えた。愛する者は愛されない。愛される者は少しも愛しない。愛し愛される者は、いつかは早晩、愛から引離される……。人はみずから苦しむ。人は他人を苦しませる。そして最も不幸なのは、かならずしもみずから苦しんでる者ではない。

 クリストフはまた家から逃げ出し始めた。もはや家で暮すことができなかった。窓掛のない窓やむなしい部屋を、正面に見ることができなかった。
 彼はさらにひどい苦しみを知った。オイレル老人はすぐに、その一階を人に貸した。ある日クリストフは、ザビーネの室に見知らぬ人々の顔を見た。新しい生活が、消え失せた生活の最後の痕跡《こんせき》をも消滅さしてしまった。
 家にとどまってることが彼にはできなくなった。彼は終日外で過した。夜になって何にも見えなくなるころに、ようやく帰って来た。ふたたび彼は野の逍遙《しょうよう》を始めた。そして不可抗の力でベルトルトの農家の方へ引きつけられた。しかし中へははいらなかった。近寄ることもしかねた。遠くからその周囲を回った。農家や平野や川を見おろせ
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