部屋の戸がまた開かれた。ローザは低い声でクリストフを呼び、手さぐりで捜した。彼女は彼の手を取った。彼はその手に触れて反発心を覚えた。みずからそれを心にとがめたが、どうにもできなかった。
 ローザは黙っていた。深い同情の念から口をつぐんでいたのである。クリストフは無駄《むだ》口で苦しみを乱されないのを感謝した。けれども彼は知りたかった。……あの女[#「あの女」に傍点]のことを話してくれる者は彼女一人だった。彼は低く尋ねた。
「いつあの女《ひと》は……?」
(死んだか、とは言い得なかった。)
 彼女は答えた。
「一週間前の土曜日に。」
 一つの思い出が彼の頭を過《よぎ》った。彼は言った。
「夜中ですね。」
 ローザはびっくりして彼をながめた。そして言った。
「ええ、夜中よ、二時と三時との間に。」
 あの悲しみのメロディーがまた彼に現われた。
 彼は震えながら尋ねた。
「たいへん苦しみましたか。」
「いいえ、仕合せと、別にお苦しみなさらなかったの。あんなにお弱かったんですもの。ちっとも逆らいなさらなかったの。すぐに、駄目《だめ》だということがわかったのよ。」
「そしてあの女《ひと》は、前からそれと知っていましたか。」
「さあどうですか。でもなんだか……。」
「何か言いましたか。」
「いいえ、何にも。赤ん坊のようにむずがっていらしてよ。」
「あなたはそばにいたんですか。」
「ええ、初めの二日間、兄さんがいらっしゃるまで、一人でついていたの。」
 彼は感謝の念に駆られて彼女の手を握りしめた。
「ありがとう。」
 彼女は血が心臓にこみ上げてくるような気がした。
 ちょっと黙ってた後に、彼は言った、息がつまるような問いをつぶやいた。
「あの女《ひと》は何にも言わなかったんですか……僕にたいして。」
 ローザは悲しげに頭を振った。彼が待ってる返事をしてやることができたら、何を投げ出しても惜しく思わなかったであろう。嘘《うそ》を言うことができないのが心苦しかった。彼女は彼を慰めようとつとめた。
「もう本心を失っていらしたんですもの。」
「口をききましたか。」
「意味がよくわからなかったの。ごく低い声でした。」
「娘さんはどこにいます?」
「兄さんが田舎の家へ連れていったの。」
「そして、あの女[#「あの女」に傍点]は?」
「やはり向うに。前週の月曜日に、ここから発《た》たれたの。」

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