二人はまた泣き出した。
 フォーゲル夫人の声がまたローザを呼んだ。クリストフはふたたび一人残って、逝去《せいきょ》のその日々に立ちもどってみた。一週間、もう一週間になっていた……。嗚呼《ああ》、あの女《ひと》はどうなったのだろう。その週間は、なんと雨が多いことだったろう、地上では!……そして彼は、その間じゅう笑い楽しんでいたではないか!
 彼はポケットの中に、絹紙に包んだ物を感じた。彼女の靴《くつ》につけてやるためにもって来た銀の留金《とめがね》であった。靴から出てる小さな足先に手を押し当てた夕のことを、彼は思い出した。その小さな足も、今はどこにあるのか。どんなにか冷えきってることだろう!……その生あたたかい接触の思い出だけが、あの愛する身体から得た唯一のものであることを、彼は考えた。彼はかつてその身体に触れ得なかった、それを両腕に抱き取り得なかった。彼女はまったく識《し》られないままで去っていった。彼女については、魂も肉体も、彼は少しも知るところがなかった。彼女の形態や生命や愛について、彼は一つの思い出も持っていなかった。……彼女の愛?……その証拠さえあったのであろうか。……手紙も、形見の品も――なんにも彼はもたなかった。自分の中にか、自分の外にか、どこに彼女をとらえ彼女を捜したらいいか?……ただ虚無! 彼女について彼に残ってるものは、彼女にたいする彼の愛ばかりであった。彼に残ってるものは彼自身ばかりであった……。――それでもなお、壊滅の手から彼女をもぎ取らんとする激しい欲望と死を否定せんとする欲求のために、彼はその最後の遺品に執着して、狂信的な一句の中に没入した。

 妾《わらわ》は死にたるに非ず、住居《すまい》を変えたるなり。
 泣きつつ妾を見給う君のうちに、妾は生きて残れり。
 愛せられし魂は姿を変うるも、恋人の魂の外には出でじ。

 彼はそれらの崇高な言葉を読んだことはかつてなかった。しかしそれは彼のうちにあったのである。人は皆順次に、幾世紀となく十字架に上ってゆく。各自に苦悶を見出し、幾世紀となき絶望的な希望を見出す。かつて生存した人々、かつて死とたたかい、死を否定し――そして死んだ人々、彼らの足跡をそのまま、各自にたどってゆく。

 彼は家に閉じこもった。向うの家の窓を見ないために、終日雨戸を閉ざしておいた。彼はフォーゲル一家の者を避けた。彼らが厭で
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