暗い薪《まき》部屋に残った。一条の光が、蜘蛛《くも》の巣の張りつめた狭い軒窓から落ちていた。往来には物売女の呼び声が聞えていた。隣の厩《うまや》で一頭の馬が、壁に息を吐きかけ蹄《ひづめ》で蹴《け》っていた。クリストフは先刻悟った事柄について、なんらの喜びをも感じなかった。しかし一時はそれが気にかかった。今までわからなかった多くのことが、ようやく了解されてきた。今まで注意も払わなかった数多《あまた》の細かな事実が、頭に浮かんできて明瞭《めいりょう》になった。彼はそんなことを考えたのにみずから驚き、一瞬間といえども自分の悲しみから気を転じたのにみずから憤った。しかしその悲しみは、きわめて残虐なものだったので、愛欲よりもずっと強い自己保存の本能に強《し》いられて、彼はそれから眼をそらし、あたかも水におぼれた絶望者が、なお一瞬間水面に浮かぶ助けとなる物なら、何物にでも本意ならずもすがりつくがように、この新らしい考えに取りついたのであった。そのうえ、彼はみずから苦しんでいたので、他人が苦しんでる――しかも自分のために苦しんでるゆえんを、今感じたのであった。彼は先刻《さっき》流さした涙を理解した。ローザがかわいそうになった。彼女にたいして自分が残酷であったことを――なおこれからも残酷であるだろうことを、彼は考えた。なぜなら彼は彼女を愛していなかったから。彼女が彼を愛してもなんの役にたとう? 憐《あわ》れな娘よ!……彼女は親切だ(それを彼女は先刻証明した)ということを、彼はいたずらに思うばかりだった。彼女の親切さが彼に何になったろう?……彼女の生が彼に何になったろう?……彼は考えた。
「なぜ彼女の方が死ななかったのか、なぜあの女《ひと》の方が生きていないのか?」
 彼はまた考えた。
「彼女は生きている。私を愛している。今日か、明日か、生涯のうちには、それを私に言うことができる。――そしてあの女《ひと》、私が愛するただ一人の女、彼女は愛してることを私に告げずに死んでしまった。私の方でも愛してることを彼女に言わなかった。永久に私は彼女がそれを言うのを聞くことがないだろう。永久に彼女は言うことができないだろう……。」
 そして最後の夕の思い出が浮かんできた。たがいにうち明けようとしてると、ローザがやって来て二人を妨げたことを、彼は思い出した。そして彼はローザを憎んだ……。
 薪《まき》
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