た。晩に薄暗い階段のところでかわす「さよなら」、薄暗がりでたがいに求め合いたがいに察し合う眼付、触れ合う手の戦《おのの》き、声の震え、すべてつまらないことばかりだった。しかし夜になって、時計の鳴る音にも眼を覚ますような軽い眠りに入っている時、小川のささやきのように「私は愛されてる」と心が歌っている時、二人にはそれらの思い出が浮かんでくるのであった。
 二人は事物の魅力を見出した。春は無上の楽しさをもって微笑《ほほえ》んでいた。彼らが今まで知らなかったほどの、輝きが空にはあり、やさしみが空気にはこもっていた。町じゅうが、赤い屋根も、白い壁も、凸凹《でこぼこ》の舗石も、親しい魅力を帯びて、クリストフはそれに心を動かされた。夜、人の寝静まっている時、ミンナは寝床から起き上がり、半ば眠り心地で心を躍《おど》らせながら、長く窓にもたれていた。午後、彼がいない時には、彼女はブランコに腰をかけ、書物を膝に置き、眼を半ば閉じ、快い懶《ものう》さにうっとりとし、身も心も春の空気中に漂うような心地がして、夢想に耽っていた。今や彼女はいく時間もピアノについていて、他人の目にはたまらないほどの気長さで和音や楽
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