ようともしなかった。彼の口はその手のそばに近づいた。彼は音譜を読もうとしたが読めなかった。他の物を見ていたのである――花弁のようなしなやかな透き通った物を。そして突然――(どんなことが頭に浮かんだかみずから知らなかったが)彼は力いっぱいに、その愛くるしい手に唇を押しあてた。
二人ともそれにびっくりした。彼は後ろに飛びのき、彼女は手を引込めた――二人とも真赤になりながら。二人は一言も交《か》わさなかった。顔を見合しもしなかった。当惑してちょっと黙っていた後、彼女はまたピアノをひき始めた。胸が押えつけられてるように軽く喘《あえ》いでいた。やたらに音符を間違えた。彼はその間違いに気づかなかった。彼女よりいっそう心乱れていた。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》がぴんぴんして、何にも耳にはいらなかった。そしてただ沈黙を破るために、息づまった声で、むちゃくちゃに意見を述べた。もう取り返しのつかないほどミンナから悪く思われたことと、彼は考えていた。自分の行ないに困惑してしまい、馬鹿な下等な行ないだと思っていた。稽古《けいこ》の時間が終ると、顔も見ないでミンナと別れ、挨拶《あいさつ》することさえ忘れてしまった。しかし彼女は悪く思っていなかった。もうクリストフを育ちが悪いとも思っていなかった。非常にひき違いをしたというのも、それは、驚いたそして――初めて――同情のこもった好奇心をもって、なお横目で彼の様子を窺《うかが》ってやめなかったからである。
一人になると彼女は、いつものように母のところへ行くことをしないで、自分の居間にとじこもり、その異常な出来事を考えてみた。彼女は鏡の前に肱《ひじ》をついていた。自分の眼がやさしくって輝いてるような気がした。考えに耽って軽く唇を噛《か》んだ。自分のかわいい顔を嬉《うれ》しく見入りながら、先刻の光景を描き出して、真赤になり、微笑《ほほえ》んだ。食卓についた時には、元気で快活だった。それから外出を断って、午後の一部を客間で過ごした。手には編物をもっていたが、十針も正しく編むことはできなかった。しかしそんなことはどうでもかまわなかった。室の片|隅《すみ》に、母の方へ背を向けて、彼女は微笑《ほほえ》んでいた。あるいは突然はね出したくなって、大声に歌いながら室の中を飛び回った。ケリッヒ夫人はびっくりして、気違いだと呼んだ。ミンナは
前へ
次へ
全111ページ中81ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング