かむかしていた。彼女はちょっと待ったが、それから不満な調子で言った。
「ハンケチを拾ってくださいませんの?」
 クリストフはもう我慢しきれなかった。
「私はあなたの召使じゃありません。」と彼はぞんざいに叫んだ。「自分でお拾いなさい。」
 ミンナは息がつまった。にわかに腰掛から立ち上がった。腰掛は倒れた。
「あんまりだわ。」と彼女は言いながら、腹だたしく鍵盤をたたいた。そしてひどい勢で室から出て行った。
 クリストフは彼女を待った。彼女はもどって来なかった。彼は自分の行ないが恥ずかしかった。無頼漢みたいなことをしたと感じた。で彼は進退きわまった。彼女からはあまりに厚かましい嘲弄を受けていたのである。彼はミンナが母親に訴えはすまいかと恐れた、ケリッヒ夫人の心が変わってしまいはすまいかと恐れた。彼はどうしていいかわからなかった。自分の乱暴を後悔はしていたが、許しを乞う気にはどうしてもなれなかった。
 翌日彼は、ミンナが稽古《けいこ》を受けることを拒むかもしれないと考えてはいたけれど、とにかくまたやって来た。しかしミンナは、高慢な心からだれにも言いつけなかったし、もとより多少良心にやましい点がないでもなかったので、普通より五分ばかり長く待たしただけで、そこに出て来た。そして、クリストフのことなんか眼中にないかのように、ふり向きもせず、一言もいわず、まっすぐにつんとして、ピアノの前に行ってすわった。それでもやはり、彼から稽古を受けたし、なお引きつづいて彼から学んだ。というのは、クリストフが音楽に通じてることをよく知っていたし、また、自分がなろうと考えてるもの、すなわち生まれのよいりっぱな教育のある令嬢――それになろうとするには、ピアノをよく覚えなければならないということを、よく知っていたからである。
 けれども、彼女はいかに退屈してたことだろう! 彼らは二人とも、いかに退屈してたことだろう!

 霧深い三月のある朝、細かな雪が羽毛のように灰色の空中に飛び舞っていた時、二人は研究室《スチューディオ》にいた。室内はほの暗かった。ミンナは音符を一つ間違えて、いつものとおり言い争い、「そう書いてある」と言い張った。彼女が嘘《うそ》を言ってることはよくわかっていたけれども、クリストフは楽譜の上に身をかがめ、問題の楽節をまぢかに見ようとした。彼女は譜面台の上に片手を置いていて、それをのけ
前へ 次へ
全111ページ中80ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング