みずからよくわからなかった。真面目《まじめ》に考えてみても、どちらを選んでいいかわからなかった。それでも、どうしても決定しなければいけないらしかったので、ケリッヒ夫人の方に心を傾けてみた。そして実際、その決心をするや否や、自分が恋しているのは彼女をであることがわかった。彼女の怜悧《れいり》な眼、半ば開いた口の無心な微笑《ほほえ》み、細やかな滑《なめ》らかな髪を横の方で分けているその若々しい麗わしい額、軽い咳《せき》を交える多少曇った声音、母性的なやさしい手、優雅な動作、知りがたいその魂、それらを彼は恋していたのである。彼女がそばにすわって、わからない書物の一節を親切に説明してくれる時、彼は幸福のあまり身を震わした。彼女はクリストフの肩に手を置いていた。その指の温みを彼は感じ、自分の頬《ほお》にかかる彼女の息を、彼女の身体の快い香りを、彼は感じた。恍惚《こうこつ》として耳を傾けながら、もはや書物のことは考えもせず、何にも了解しなかった。彼女はそれに気づいた。今言ったことをくり返さした。彼は黙っていた。彼女は笑いながら怒って、彼の顔を書物に押しつけ、そんなふうではいつまでたっても小さな驢馬《ろば》だと言った。彼はそれに答え返して、彼女[#「彼女」に傍点]の小さな驢馬でさえあるならば、彼女から追い出されさえしなければ、驢馬でもかまわないと言った。彼女はわざわざ小言をいってみた。それから、彼はごく馬鹿な賤《いや》しい小さな驢馬ではあるけれども、たといなんの役にもたたなくとも、せめてただおとなしく[#「おとなしく」に傍点]さえしていれば、家に置いてやることは――そしてまたかわいがってやることをも――承知すると言った。二人とも笑っていた。彼は喜びの中に浸っていた。
ケリッヒ夫人に恋してることがわかって以来、クリストフはミンナから離れていった。人を軽蔑した彼女の冷淡さに憤り始めた。そして、彼女としばしば会っていたので、しだいに遠慮しなくなってきたから、彼はもう自分の不機嫌《ふきげん》さを隠さなかった。彼女は好んで彼につっかかり、彼はそれにきびしく応答した。彼らはいつも不快なことを言い合った。ケリッヒ夫人はそれをただ笑うばかりだった。クリストフはその言葉争いに勝目がなかったから、時には憤然として出て行って、ミンナを大嫌いだと考えることもあった。そしてまたその家へもどって行くのも
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