るようなかわいらしい顔だった。
クリストフはその出現にびっくりした。逃げ出すこともできずに、その場に釘付けになった。そして若い婦人が、そのやさしい揶揄《からか》うような微笑を浮べながら、二三歩進んでくるのを見た時、彼は初めて身を動かして、壁土をいっしょにはね落しながら、標石から飛び――転げ落ちた。「坊ちゃん」となれなれしく呼びかける親切な声と、小鳥の声のように晴々した澄みきった子供らしい笑い声とが、耳に聞えた。彼は四つ這《ば》いになって路次の中に身を潜めた。そして間もなく狼狽《ろうばい》の情が和らぐと、あたかもだれかに追っかけられるのを恐がったかのように、足に任して逃げ出した。彼は恥ずかしかった。その恥ずかしさは、家に帰って自分の室で一人になると、また激しく彼を襲ってきた。それ以来彼は、だれかに待伏せされてはすまいかという妙な恐れを感じて、もうその路次が通れなくなった。その家のそばを通らなければならない時には、壁に身を寄せ、頭を下げ、ふり向きもしないでほとんど駆けぬけた。それと同時に、あのやさしい二つの顔のことを考えやめなかった。足音を聞かれないように靴をぬいで、屋根裏の室に上っていった。そして種々くふうをしてはその軒窓から、ケリッヒ家の家と庭との方を眺めた。そのくせ彼は、木立の梢《こずえ》と屋根の煙筒しか見えないことをよく知っていた。
それから一か月後に彼は、宮廷音楽団が毎週催す定期演奏会で自作のピアノ協奏曲《コンセルト》を一つひいた。その曲の終楽章の中ほどまでひいた時、彼は偶然、前面の桟敷《さじき》に、自分の方を眺めてるケリッヒ夫人と娘とを認めた。あまりに意外だったので、茫然《ぼうぜん》としてしまって、管弦楽に調子を合わせることさえ忘れかけた。協奏曲《コンセルト》の終りまで機械的にひきつづけた。演奏が終ると、彼はその方を見まいとはしていたが、ケリッヒ夫人と令嬢とが見てくれと言わんばかりにややおおげさに拍手してるのが、眼にはいった。彼は急いで舞台を離れた。劇場から出ようとする時、廊下で、立並んでる人々に隔てられて、自分が通るのを待ち受けてるらしいケリッヒ夫人の姿を、彼は認めた。彼は夫人を見ないわけにはいかなかった。けれども目につかないふうを装った。そして後に引返しながら劇場の通用門からあわてて出て行った。その後で、彼はそれをみずからとがめた。なぜなら、ケリッヒ
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