夫人がなんらの悪意もいだいてないことをよく承知していたから。しかし、またそんな場合になったら、自分はやはり同じようなことをするだろうと、みずから知っていた。彼は往来で夫人に会うのを恐れた。夫人に似た姿を遠くに見かけると、彼は道をそらすのであった。
夫人の方から彼を追っかけて来た。
ある朝、彼が昼食のために家へ帰ると、ルイザは得意になって、仕着せをつけた従僕が彼あての手紙を届けてきたと話した。そして黒枠《くろわく》のついた大きな封筒を彼に渡した。裏にはケリッヒ家の紋章が印刻してあった。クリストフはそれを開いて、震えながら読んだ――まさしく次のとおりに。
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ヨゼファ・フォン・ケリッヒ夫人は、宮廷音楽員クリストフ・クラフト氏に、本日五時半、自宅にて御茶を差上げたく、御招待致します。
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「ぼくは行かない。」とクリストフは言いきった。
「なんです!」とルイザは叫んだ。「行くと言っておいたよ。」
クリストフは母に言い逆らった。自分の関係もないことにおせっかいするのを彼女に非難した。
「下男の人が返事を待っていたんだよ。今日はちょうどお前は暇《ひま》だと、私は言っておいた。その時間には、お前は何も用がないでしょう。」
クリストフはいたずらに怒りたって、行かないと言い張ったが、しかしもうこうなっては遁《のが》れるわけにはゆかなかった。招待の時間が来ると、顔をしかめながら身支度をした。しかし心の底では、偶然の機会で自分のひねくれた考えを枉《ま》げなければならないのを、別に厭《いや》だとも思ってはいなかった。
ケリッヒ夫人は、庭の壁の上から髪の乱れた頭をつき出していたあの粗野な少年を、演奏会のピアニストだと難なく見てとった。彼女は近くの人たちに聞きただした。そしてクリストフの健気《けなげ》な苦しい生活を知って、彼に同情を寄せ、彼と話をしてみたい好奇心を起こしたのである。
クリストフはおかしなフロックを着飾り、田舎《いなか》牧師のような様子になって、ひどくおずおずしながら夫人の家へやって来た。初めて見られたあの日には、夫人たちは自分の顔立を見分けるだけの隙《ひま》をもたなかったろうと、彼はしいて思い込もうとした。足音もしないような絨氈《じゅうたん》をしきつめた長い廊下を通って、ある室の中に召使から案内された。室のガラス戸は庭
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