、その少年音楽家に会ってやると約束した。
 でメルキオルは、音楽会をできるだけ早く催すことに取りかかった。彼は宮廷音楽団の協力を確かめた。そして第一策の成功のためにますます増長していたので、少年の快楽[#「少年の快楽」に傍点]の豪奢《ごうしゃ》な出版を同時に企てた。ピアノについてるクリストフとヴァイオリンを手にしてそのそばに立ってる自分メルキオルとの肖像を、本の表紙に刷り込みたかった。しかしこれは諦《あきら》めなければならなかった。費用のためではないが――メルキオルは入費なんかに辟易《へきえき》する男ではなかった――それだけの時日がなかったからである。彼は比喩《ひゆ》的な絵に取代えた。揺籃《ゆりかご》、ラッパ、太鼓、木馬などが、光線のほとばしり出てる竪琴《たてごと》を取巻いてる絵だった。表題には、大公爵の名前が太い字で浮出してる長い捧呈文が添えてあって、「ジャン・クリストフ・クラフト氏は六歳なりき」という説明もついていた。(実をいえば彼は七歳半だった。)楽譜の版刻にたいそう金がかかった。それを払うためには、模様彫刻のある十八世紀の古い戸棚《とだな》を祖父が売らなければならなかった。道具屋のウォルムゼルが再三申込んでも決して手離そうとしなかった品である。しかしメルキオルは、書物の売高でその償いは取れてあまりあるものだと、少しも疑わなかった。
 なおも一つの問題が彼の気にかかっていた。演奏会当日のクリストフの服装問題だった。それについて家族の会議が開かれた。四歳くらいの子供みたいに、短い上着をつけ脛《すね》を露《あら》わにして舞台に出ることを、メルキオルは望んでいた。しかしクリストフは年齢のわりにはごく頑丈《がんじょう》だった。だれもそれを知っていた。ごまかすことができようとは思いもよらなかった。するとメルキオルはうまい考えを思いついた。燕尾《えんび》服をきせて白い襟《えり》飾をつけさせようときめた。やさしいルイザは、かわいい子供を人の笑い草にするつもりかと言い逆らったが、なんの役にもたたなかった。そういう意外な姿で出ると、そのために面白みが増して成功するに違いないと、メルキオルはあらかじめ嬉《うれ》しがっていた。そうきまると、この小さな大人《おとな》の服装のために仕立屋が寸法を取りに来た。また上等のシャツや塗靴《ぬりぐつ》も必要だった。それらのものもまた眼の玉が飛び出るほど高価だった。クリストフはその新しい衣裳をつけるとたいへんぎごちなかった。それに慣らすために、何度も衣裳をつけて楽曲を稽古《けいこ》させられた。一月も前から、彼はもうピアノの腰掛を離れなかった。また挨拶《あいさつ》のしかたも教えられた。自由になる時は一瞬もなかった。彼は苛《い》ら立っていたが、しかしあえて逆らいはしなかった。晴れの業《わざ》をやるんだと考えていたから。そして得意でもあったが心配でもあった。そのうえ、皆から大事にされていた。風邪《かぜ》をひきはしないかと気遣われた。絹ハンカチで首を巻いてもらった。湿らないように靴をあたためてもらった。食卓ではいちばんいい物を食べさせられた。
 ついに晴れの日がやってきた。理髪師は身支度の指図にやって来て、クリストフの硬《かた》い髪を縮らしてくれた。羊のような巻毛をこしらえないうちは彼を放さなかった。家じゅうの者がクリストフの前に並んで、りっぱになったと言った。メルキオルは彼の顔を見調べ、方々から眺めた後、額をたたいて、大きな花を捜しに行き、それを彼のボタンの穴にさしてくれた。しかしルイザは、彼の姿を見ながら、両腕を天の方へ差上げて、猿《さる》のようだと悲しげに叫んだ。その言葉はひどく彼をがっかりさした。彼自身もその服装を誇っていいか恥じていいかわからなかった。本能的に彼は屈辱を感じた。音楽会ではなおさらであった。彼にとってはそういう屈辱の感が、この記念すべき一日のおもな感情であることになった。

 音楽会はこれから始まるところであった。坐席の半ばは空《あ》いていた。大公爵はまだ来ていなかった。こういう場合にはいつもあるとおり、一人の親切な物知りの友人がやはりいて、宮邸には評議会があるので大公爵は来られまいという消息をもたらしてきた。確かな筋から出た消息だそうだった。メルキオルは落胆し、気をもみ、行ったり来たりし、窓から覗《のぞ》き出した。ジャン・ミシェル老人の方も心痛していた。しかしそれは孫のことについてであった。彼はやたらに世話をやいていた。クリストフは家の者たちの熱心さにかぶれていた。自分の楽曲についてはなんらの不安も感じなかった。ただ公衆に向かってなすべき挨拶《あいさつ》のことを考えては、心を乱していた。そしてあまり考えてばかりいたので、それが苦悶《くもん》の種とまでなった。
 そのうちに、いよいよ始めなければならなくなった。聴衆は待ちかねていた。宮廷音楽団の管弦楽《オーケストラ》は、コリオランの序曲[#「コリオランの序曲」に傍点]を奏し出した。子供はコリオランもベートーヴェンも知らなかった。彼はベートーヴェンの曲をしばしば聞いたことがあったが、それと知らないで聞いていたのだった。かつて彼は聞いてる作品の名前を気にかけたことがなかった。自分で勝手な名前をこしらえ出してそれに名づけ、その主題に、小さな物語やあるいは小さな景色をあてはめていた。彼は作品を普通三種に分類していた。火と土と水とであった。そしてそのおのおのにまた無数のいろんな細かい差異があった。モーツァルトは水に属していた。川端の牧場や、河上に漂う透きわたった靄《もや》や、春の小雨や、あるいは虹《にじ》であった。ベートーヴェンは火であった。ある時は、巨大な炎と広大な煙とをたてる烈火であった。ある時は、燃えてる森であり、電光のほとばしり出る恐ろしい重い雲であった。ある時は、燦爛《さんらん》たる光に満ちた大空であって、九月の麗わしい夜に、一つ離れて滑り落ち静かに消えてゆく、見ても胸踊るばかりの星が一つ、そこに見えていた。この音楽会の時もまた、その勇ましい魂の熱火がクリストフを焼いた。彼は炎の急湍《きゅうたん》に巻き込まれた。その他はすべて消え去った。その他はすべて彼にたいしてなんであったか? 狼狽《ろうばい》してるメルキオル、心痛してるジャン・ミシェル、忙しそうな皆の者、聴衆、大公爵、小さなクリストフ自身、それらのものに彼はなんの用があったか? 彼は自分をさらってゆく恐ろしい意力の手中にあった。彼はその後に従ってゆきながら、息をあえぎ、眼に涙を浮べ、足をすくめ、掌《たなごころ》から蹠《あしうら》にいたるまでぞっとしていた。血潮は襲撃の譜を鳴らしていた。そして彼は震えていた。……かくて、飾り框《かまち》の後ろに隠れ、耳をそばだて、じっと聴いているうちに、彼は心の底ではっとした。管弦楽はある小節の真中でぴたりと止っていた。そしてちょっと休んだ後、銅鑼《どら》やティムパニの大きな音で、公《おおやけ》の威勢をもって軍歌を奏し出した。その二つの音楽の移り変わりがあまりに粗暴だったので、クリストフは憤って、歯をきしらせ足を踏み鳴らして、壁に拳固《げんこ》をつきつけた。しかしメルキオルは雀躍《こおどり》していた。大公爵がはいって来て、管弦楽団が国歌を奏して敬意を表したのだった。ジャン・ミシェルは震え声で、孫に最後の世話をやいていた。
 序曲がまた始まって、こんどは終りまでやられた。いよいよクリストフの番となった。メルキオルは巧妙に曲目《プログラム》を立てて、息子の妙技と父の妙技とを同時に発揮されるようにしておいた。ピアノとヴァイオリンのための、モーツァルトの奏鳴曲《ソナタ》を、二人で合奏することになっていた。効果を増すために、まずクリストフが一人で舞台へ出ることにきまっていた。人々は彼を舞台の入口に連れてゆき、楽壇の前方にあるピアノを指し示し、なすべきことを最後にも一度言ってきかせ、そして袖《そで》道具の外へ押し出した。
 彼は長い前から芝居の広間へは来つけていたから、たいしてびくついてはいなかった。しかし幾百人の眼の前で、舞台の上にただ一人立った時、にわかに気後《きおく》れがして、本能的に後へ退《さが》ろうとした。袖道具の方へふり向いてそこへはいろうとまでした。けれども、そこには父の姿が控えていて、怒った身振りや眼付をしていた。彼はつづけて進み出なければならなかった。そのうえ、もう聴衆から姿を見られていた。彼が進み出るにしたがって、好奇の叫びが起こり、ついで笑い声が起こり、それが次に広まっていった。メルキオルの見当ははずれなかった。子供の服装は望むとおりの効果を現わした。長い髪をし、ジプシーの少年のような色をし、りっぱな紳士のような夜会裳をして、小跨《こまた》におずおず歩いてる小僧が出て来たのを見て、聴衆席では大騒ぎだった。人々はなおよく見るために立上がった。やがて満堂の歓喜となった。それには少しも悪意はこもってはいなかったけれど、ごく気丈な名手をも惘然《ぼうぜん》たらしむるほどのものだった。クリストフは、騒音や眼や自分に向けられてる双眼鏡《グラス》などにおびえきって、できるだけ早くピアノのところへ行こうという考えきりもたなかった。そのピアノは海中の小島のように彼には思われた。頭を下げ、側目《わきめ》もふらず、脚燈《フートライト》に沿うて、急《せ》き込んだ足取りで歩いていった。舞台の真中まで行くと、約束どおり聴衆に挨拶《あいさつ》することもしないで、かえって背中を向け、ピアノに向かってまっすぐに進んでいった。椅子《いす》があまり高すぎたので、それにすわるには父の助けを待たなければならなかった。しかし彼は狼狽《ろうばい》のあまり父を待たないで、膝《ひざ》をかけて椅子によじ上った。そのために聴衆の歓《よろこ》びはさらに増した。しかしもうクリストフは大丈夫だった。楽器の前に向えば、もはやだれも恐るべきものはなかった。
 メルキオルがついに出て来た。彼は聴衆の上|機嫌《きげん》に得をして、かなり熱烈な喝采《かっさい》で迎えられた。奏鳴曲《ソナタ》が始まった。少年は一心になって口をきっと結び、鍵《キイ》の上に眼を据え、小さな足を椅子《いす》から垂れて、一糸乱れない確実さをもって演奏した。楽曲が展開してゆくにつれて、彼はますます落着いてきた。あたかもよく知ってる友人らの間にいるような気がした。賞賛のささやきが一つ彼のところまで聞えてきた。すべての人々が黙って聞きとれ感心してると考えながら、高慢な満足の念がむらむらと頭に上ってきた。しかし演奏を終えるや否や、また不安の念にとらえられた。喝采をもって迎えられると、嬉《うれ》しいよりもむしろ恥しかった。メルキオルから手を取られて、脚燈《フートライト》の縁までいっしょに進んでゆき、聴衆に挨拶《あいさつ》をさせられた時に、その恥ずかしさはさらに大きくなった。彼はメルキオルの言葉に従って、おかしいほど無格好にごく低くお辞儀をした。しかし彼は屈辱を感じていた。何か滑稽《こっけい》な卑しいことでもしてるかのように、自分から真赤になっていた。
 彼はまたピアノの前にすわらせられた。そして少年の快楽[#「少年の快楽」に傍点]をひいた。すると狂うがような歓喜が起こった。各楽曲の後に、聴衆は感激の叫びをあげた。も一度彼にやらせたがった。そして彼は成功に得意になり、また同時に、命令に等しいそれらの賞賛にほとんど気を悪くした。最後に、場内総立になって喝采した。大公爵は拍手喝采の合図をくだしていた。しかしこんどは、クリストフは舞台に一人きりだったので、もう椅子から身を動かす勇気もなかった。喝采はさらに激しくなった。彼は顔を真赤にして当惑の様子で、ますます低く頭を垂れ、聴衆席と反対の方ばかり見つめていた。メルキオルが彼をとらえに出て来た。彼を両腕に抱き取り、接吻を送れと言って、大公爵の座席をさし示した。クリストフは聞えないふうをした。メルキオルはその腕をとらえ、低い声でおどした。すると彼は厭々《いやいや》ながら言われたとおりの身振りをした。しか
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