のものであった。クリストフはそれをきいていつも同じ切なさを感じた。ゴットフリートは決して一晩に一つの歌きり歌わなかった。頼まれても快く歌わないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時自然に出てくるのでなければならなかった。黙って長い間待っていなければならないことが多かった。そして「もう今晩は歌わないんだろう……」とクリストフが考えてる時に、ゴットフリートは歌い出すのだった。
 ある晩、ゴットフリートが確かに歌ってくれそうもない時、クリストフは自作の小曲を一つ彼に示そうと思いついた。作るのにたいへん骨折ったものであり、得意になってるものであった。自分がいかに芸術家であるかを見せつけたかった。ゴットフリートは静かに耳を傾けた。それから言った。
「実にまずいね、気の毒だが。」
 クリストフは面目を失って、答うべき言葉も見出さなかった。ゴットフリートは憐れむように言った。
「どうしてそんなものをこしらえたんだい。いかにもまずい。だれもそんなものをこしらえろとは言わなかったろうにね。」
 クリストフは憤りのあまり真赤になって言い逆った。
「お祖父《じい》さんはぼくの音楽をたいへんいいと思ってるよ。」と彼は叫んだ。
「ああ!」とゴットフリートは平気で言った、「そりゃ道理《もっとも》に違いない。あの人はたいへん学者だ。音楽に通じてる。ところがおれは音楽をよく知らないんだ。」
 そしてちょっと間をおいて言った。
「だがおれは、たいへんまずいと思う。」
 彼は穏かにクリストフを眺め、その不機嫌《ふきげん》な顔を見、微笑《ほほえ》んで言った。
「他《ほか》にもこしらえた節《ふし》があるかい。今のより他のものの方がおれには気に入るかもしれない。」
 クリストフは他の節が最初のものの印象を実際消してくれるかもしれないと考えた。そしてあるたけ歌った。ゴットフリートはなんとも言わなかった。彼はおしまいになるのを待っていた。それから、頭を振って、深い自信ある調子で言った。
「なおまずい。」
 クリストフは唇《くちびる》をくいしめた。頤《あご》が震えていた。泣き出したくなっていた。ゴットフリートは自分でもまごついてるように言い張った。
「実にまずい!」
 クリストフは涙声で叫んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
 ゴットフリートは正直な眼付で彼を眺めた。
「どうしてって?……おれにはわからない……お待ちよ……実際まずい……第一、馬鹿げてるから……そうだ、そのとおりだ……馬鹿げてる、なんの意味もなさない……そこだ。それを書いた時、お前は何もいうべきことをもっていなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「知らないよ。」とクリストフは悲しい声で言った。「美しい楽曲を書きたかったんだよ。」
「それだ。お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になるために、人からほめられたいために、書いたんだ。お前は高慢だった、お前は嘘《うそ》をついた、それで罰を受けたんだ……そこだ! 音楽では、高慢になって嘘をつけば、いつでも罰を受ける。音楽は謙遜《けんそん》で誠実であることを望む。もしそうでなかったら、音楽はなんだろう? 神様にたいする不信だ、冒涜《ぼうとく》だ、正直な真実なことをいうために美しい歌をわれわれに贈ってくだすった神様にたいしてね。」
 彼は子供の悲しみに気がついて、抱擁してやろうとした。しかしクリストフは怒って横を向いた。そしていく日も不機嫌《ふきげん》な顔を見せた。彼はゴットフリートを憎んでいた。――しかし、「あいつは馬鹿だ、何を知るもんか! ずっと賢いお祖父《じい》さんが、僕の音楽を素敵だと言ってるんだ」といくらみずからくり返しても甲斐《かい》がなかった。――心の底では、叔父の方が道理だと彼は知っていた。そしてゴットフリートの言葉は彼のうちに刻み込まれていた。彼は嘘をついたのが恥ずかしかった。
 それで、彼はしつこく恨みを含んでいたものの、音楽を書く時には、今やいつでも叔父のことを考えていた。そしてしばしば、ゴットフリートにどう思われるだろうかと考えると恥ずかしくなって、書いてしまったものを引裂くこともあった。そういう気持を押しきって、全然誠実ではないとわかってるある節を書く時には、注意深く叔父に隠していた。彼は叔父の判断をびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「さほどまずくはない……気に入った……」と、ただそれだけ楽曲の一つについて言ってくれると、彼は嬉《うれ》しくてたまらなかった。
 また時には、意趣返しに、大音楽家の曲調を自分のだと偽って、たちの悪い悪戯《いたずら》をやることもあった。そしてゴットフリートがたまたまそれをけなすと、彼は小躍《こおど》りして喜んだ。しかしゴットフリートはまごつかなかった。クリストフが手をたたいてまわりを喜んではね回るのを見ながら、彼は人のよさそうに笑っていた。そしていつも例の持論に立ちもどった。「それはよく書いてあるかもしれない、しかしなんの意味ももってはいない。」――かつて彼は家で催される小演奏会に臨席するのを好まなかった。楽曲がいかほどりっぱであろうと、彼は欠伸《あくび》をやりだして、退屈でぼんやりしたふうをしていた。やがて辛抱できないで、こっそり逃げ出した。彼はいつも言っていた。
「ねえ、坊や、お前が家の中で書くものは、みんな音楽じゃない。家の中の音楽は、室内の太陽と同じだ。音楽は家の外にあるのだ、神様のさわやかな貴い空気を少しお前が呼吸する時にね。」
 彼はいつも神様のことを口にのぼせていた。彼は二人のクラフトと違って、きわめて信仰深かった。二人のクラフト、父と子とは、金曜日の斎日《さいじつ》に肉食することを注意して避けながらも、神を恐れない者だと自任していたのである。

 突然メルキオルは、なぜだかわからないが、意見を変えた。祖父がクリストフの逸品を集めてることに賛成したばかりでなく、クリストフが非常にびっくりしたことには、その原稿から二、三の写しをいく晩もかかってこしらえ上げた。それについて人から尋ねられると、彼は勿体《もったい》ぶった様子をして、「今にわかるよ」と答えるきりだった。あるいはまた、笑いながら手をこすったり、戯れらしいふうで子供の頭を強くなでたり、彼の尻《しり》をたたいたりした。クリストフはそういうなれなれしさを非常に嫌《きら》った。しかし父が満足してることはわかっていた。そしてその理由はわからなかった。
 それから、メルキオルと祖父との間に秘密な相談が行なわれた。そしてある晩クリストフは、クリストフみずから少年の快楽[#「少年の快楽」に傍点]を大公爵レオポルト殿下にささげたということを聞いて、非常に驚いた。メルキオルは、その敬意を嘉納《かのう》せられる思召《おぼしめ》しが大公爵にあるということを、前から匂わしていた。そこで、得意然たるメルキオルは、一刻も猶予《ゆうよ》なく次のことをしなければならないと宣言した。第一、大公爵に公《おおやけ》の申請をすること――第二、作品を発表すること――第三、その作品を聞かせるために音楽会を催すこと。
 メルキオルとジャン・ミシェルとは、なお長い相談をし合った。二晩三晩の間、彼らは勢い込んで論じ合った。だれも邪魔しに来ることを止められた。メルキオルは書いたり削ったり、削ったり書いたりしていた。老人は詩でも読むかのように、大声で話していた。時には二人で怒り出したり、言葉が見つからないでテーブルをたたいたりしていた。
 それから、クリストフが呼ばれた。右には父が控え、左には祖父が控えて、彼をテーブルの前にすわらし、指にペンを握らした。祖父は彼に文句を書き取らせ始めた。彼は少しも理解できなかった。一語一語を書くのに非常に骨が折れたし、メルキオルが耳もとで怒鳴っていたし、また、祖父があまり強い調子で朗読するので、言葉の響きに驚かされて、その意味に耳を傾けることを考えもしなかったのである。老人の方も劣らず興奮していた。じっとすわっておれなかった。原文の意味を身振であらわしながら、室の中を歩き回っていた。しかし絶えず、子供の書いてる紙面を見にやって来た。クリストフは背中から覗《のぞ》き込んでる二つの大きな頭におびえて、長く舌を出し、もうペンを持つこともできず、眼が曇ってき、あまり字画を引張りすぎたり、あるいはごちゃこちゃに書きちらしたりした――メルキオルは喚《わめ》きたて、ジャン・ミシェルは猛《たけ》りたっていた――そして彼は書き直し、またさらに書き直さなければならなかった。ついに紙の終りまで書いたかと思うと、無瑕《むきず》な紙面に大きなインキの雫《しずく》が落ちかかった。――すると彼は耳を引張られた。わっと泣き出した。しかし紙に汚点がつくので泣くことも許されなかった。――そして、第一行から書取をやり直させられた。一生涯そんなことがつづくのかと思われた。
 ついにはおしまいになった。ジャン・ミシェルは暖炉によりかかって、喜びのあまり震え声で、でき上がったものを読み返した。その間メルキオルは、椅子《いす》の上に反り返り、天井を眺めて、頤《あご》をゆすぶりながら、物知り顔に次の捧呈《ほうてい》文の文体を吟味していた。

[#ここから2字下げ]
 いと畏《かしこ》き、いと崇高《けだか》き殿下!

 四歳のころからして、音楽は私の幼い仕事の第一のものとなり始めました。私の魂を純なる和声《ハーモニー》へ鼓舞してくださる貴いミューズの神と、いったん交わりを結びますると、すぐさま私はミューズの神を愛するようになりました。そしてミューズの神も、私の愛情に報いてくだされたように思われまする。今私は六歳に達しております。そして先ごろから私のミューズの神は、霊感のさなかに幾度となく、私の耳へささやいてくだされました。「あえてせよ、あえてせよ! 汝《なんじ》の魂の和声《ハーモニー》を書けよ!」――私は考えました。「六歳で、どうして私はあえてなされよう! 芸術の識者たちになんと言われるであろう?」――私はためらいました。私は震えました。けれども私のミューズの神は望んでいられます。……私は従いました。私は書きました。
 そして今私は、
 いと崇高《けだか》き殿下よ!
 玉座の階段《きざはし》におこがましくも、私の幼い仕事の処女作を、ささげたいのでありまする。畏《かしこ》き御推賛の情け深き御瞳《おひとみ》を、この処女作の上にくだしたまわらんことを、厚かましくも希《こいねが》いたいのでありまする。
 それと申しまするのも、学問と芸術は常に、賢明なるメセーナとして、寛大なる擁護者として、殿下を御仰ぎ奉ったのでありますから。そして才能は、聖《きよ》き御保護の楯《たて》の下に、花を咲かせるのでありまするから。
 右の深く確かな信念をいだいておりまする私は、この幼き試作をささげましてあえてお側《そば》へ進みまする。なにとぞ私の尊敬の念の清い捧物《ささげもの》としてお受けくださりませ。そしてお恵みをもちまして、
 いと崇高《けだか》き殿下よ!
 この作品の上に御眼を垂れたまい、また恭《うやうや》しく御足下に伏し奉る幼き作者の上に、御眼を垂れてくださりませ!

 いと畏きいと崇高き殿下の
        全き謙譲忠実柔順なる僕《しもべ》、
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]ジャン・クリストフ・クラフト

 クリストフの耳には何にもはいらなかった。彼はなし終えたので夢中に喜んでいた。そしてまた書き直させられはすまいかと恐れて、野の中へ逃げ出した。何を書いたのか少しもわからなかったし、またちっとも気にしてはいなかった。しかし老人は、読み終った後、なおよく玩味《がんみ》するためにも一度読み直した。それが済むと、メルキオルも老人もともに、まったくりっぱな出来だと断言した。楽譜の写本といっしょにその手紙をささげられた大公爵も、同じ意見であった。彼は両方ともみごとな技功だと言ってくれた。彼は音楽会を許可し、音楽院の広間をメルキオルの勝手に使用させるよう命じ、またみずから演奏に臨む日には
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