ていた。馬鹿げた意地悪さで彼をからかっていた。それを彼は泰然と落着き払って我慢していた。けれどもクリストフは、みずから知らず知らずに彼を好んでいた。まず第一に、思うままになる柔順な玩具として彼を好きだった。それからまた、菓子か絵か面白い新案物か、待ち甲斐《がい》のある何かいいことがいつもあったので、彼を好きだった。その小男がもどって来るのは子供たちの喜びだった、いつも思いがけない余得があったから。彼はいかにも貧乏ではあったが、どうにか工面をして一人一人に土産《みやげ》物をもってきてくれた。そして家の人々の祝い日をそれぞれ忘れたことがなかった。祝日にはきまって姿を見せた。そしてポケットから、心をこめて選んだかわいい贈物を取出した。だれも礼をいうことさえ忘れるほどそれに慣れきっていた。そして彼は贈物をするという楽しみで十分|報《むく》われてるらしかった。しかしクリストフは、いつもよく眠れなかったし、夜の間に昼間の出来事を頭の中で反覆させるのが常だったので、時々、叔父はたいへん親切だと考えることがあった。そしてその憐《あわ》れな男にたいして感謝の念がこみ上げてきた。しかし昼になると、もう愚弄《ぐろう》することしか考えないで、少しもその様子を示さなかった。その上クリストフはまだあまり小さかったので、善良さの価値が十分にわからなかった。子供の言葉においては、善良と馬鹿とはほとんど同意義語である。叔父《おじ》ゴットフリートはその生きた証拠らしかった。
ある晩、メルキオルが夕食をしに町に出かけた時、ゴットフリートは下の広間に一人残っていたが、ルイザが二人の子供を寝かしてる間に、外に出て、数歩先の河岸に行き、そこにすわった。クリストフはひまだったのでその後について行った。そしていつものとおり、子犬のようにじゃれついて彼をいじめたあげく、ついに息を切らして、彼の足下の草の上に身を転がした。腹這《はらば》いになって顔を芝生《しばふ》に埋めた。息切れが止まると、また何か悪口を言ってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地面に埋めたまま、笑いこけながらそれを大声に言ってやった。なんの返辞もなかった。その沈黙にびっくりして、彼は頭をあげ、その面白い戯言《ざれごと》をふたたび言ってやろうとした。すると彼の眼はゴットフリートの顔に出会った。その顔は、金色の靄《もや》の中に消えてゆく太陽の名残《なご》りの光りに照らされていた。クリストフの言葉は喉《のど》元につかえた。ゴットフリートは眼を半ば閉じ、口を少し開いて、ぼんやり微笑《ほほえ》んでいた。彼の痛ましい顔はなんともいえぬ誠実さを帯びていた。クリストフは頬杖《ほおづえ》をついて彼を見守り始めた。夜になりかかっていた。ゴットフリートの顔は少しずつ消えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔に反映してる神秘的な印象に、クリストフも巻きこまれていった。地面は影に包まれ、空は明るかった。星が見えだしていた。河の小波《さざなみ》が岸にひたひたと音をたてていた。子供は気がぼんやりしてきた。眼にも見ないで草の小さな茎を噛《か》んでいた。蟋蟀《こおろぎ》が一匹そばで鳴いていた。彼は眠りかかるような気持[#「気持」は底本では「気待」]になった。……と突然暗い中で、ゴットフリートが歌いだした。胸の中で響くような朧《おぼ》ろな弱い声で歌った。少し離れると聞こえないくらいの声だった。しかしそれには心|惹《ひ》かるる誠がこもっていた。声高に考えてるともいえるほどだった。あたかも透明な水を通してのように、その音楽を通して、彼の心の奥底まで読み取られる、ともいえるほどだった。クリストフはかつてそんなふうに歌われるのを聞いたことがなかった。またかつてそんな歌を聞いたことがなかった。ゆるやかな簡単な幼稚な歌であって、重々しい寂しい多少単調な足どりで、決して急ぐことなく進んでいった――長い沈黙を伴って――それからまた行方《ゆくえ》もかまわず進みだし、夜のうちに消えていった。ごく遠くからやって来るようで、どこへ行くのかわからなかった。その朗らかさの中には惑乱が満ちていた。平和な表面の下には、長い年月の苦悶《くもん》が眠っていた。クリストフはもう息もつかず、身を動かすこともできないで、感動のあまり冷たくなっていた。歌が終ると、ゴットフリートの方へはい寄った。そして喉《のど》をかすらして尋ねた。
「叔父《おじ》さん!……」
ゴットフリートは答えなかった。
「叔父さん!」と子供はくり返して、彼の膝に両手と頤《あご》とをのせた。
ゴットフリートのやさしい声が言った。
「坊や……。」
「それはなんなの、叔父さん! 教えておくれよ。叔父さんが歌ったのはなんなの?」
「知らないよ。」
「なんだか言っておくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「叔父さんの歌かい。」
「おれんなもんか、馬鹿な!……古い歌だよ。」
「だれが作ったの?」
「わからないね……。」
「いつできたの?」
「わからないよ……。」
「叔父《おじ》さんが小さい時分にかい?」
「おれが生まれる前だ、おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのまたお父さんが生まれる前……。この歌はいつでもあったんだ。」
「変だね! だれもそんなことを言ってくれなかったよ。」
彼はちょっと考えた。
「叔父さん、まだ他のを知ってるかい?」
「ああ。」
「も一つ歌ってくれない?」
「なぜも一つ歌うんだ? 一つでたくさんだよ。歌いたい時に、歌わなけりゃならない時に、歌うものだ。面白半分に歌っちゃいけない。」
「だって、音楽をこしらえる時には?」
「これは音楽じゃないよ。」
子供は考えこんだ。よくわからなかった。でも彼は説明を求めはしなかった。なるほどそれは、音楽では、他の歌みたいに音楽ではなかった。彼は言った。
「叔父《おじ》さん、叔父さんはこしらえたことがあるかい?」
「何をさ?」
「歌を。」
「歌? なあにどうしておれにできるもんか。それはこしらえられるもんじゃないよ。」
子供はいつもの論法で言い張った。
「でも、叔父さん、一度はこしらえたに違いないよ。」
ゴットフリートは頑《がん》として頭を振った。
「いつでもあったんだ。」
子供は言い進んだ。
「だって、叔父さん、他《ほか》のを、新しいのを、こしらえることはできないのかい?」
「なぜこしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉《うれ》しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人《つみびと》だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が厭《いや》になった時のもある。他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。なんで他のをこしらえる必要があるもんか。」
「偉い人になるためにさ!」と子供は言った。彼は祖父の教訓とあどけない夢想とに頭が満されていた。
ゴットフリートは穏かな笑いをちょっと見せた。クリストフは少しむっとして尋ねた。
「なぜ笑うんだい!」
ゴットフリートは言った。
「ああおれは、おれはつまらない者さ。」
そして子供の頭をやさしくなでながら尋ねた。
「じゃあお前は偉い人になりたいんだな。」
「そうだよ。」とクリストフは得意げに答えた。
彼はゴットフリートからほめられることと信じていた。しかしゴットフリートはこう答え返した。
「なんのために?」
クリストフはまごついた。考えてから言った。
「りっぱな歌をこしらえるためだよ!」
ゴットフリートはまた笑った。そして言った。
「偉い人になるために歌をこしらえたいんだね、そして歌をこしらえるために偉い人になりたいんだね。お前は、尻尾《しっぽ》を追っかけてぐるぐる回ってる犬みたいだ。」
クリストフはひどく癪《しゃく》にさわった。他の時なら、いつも嘲弄《ちょうろう》している叔父《おじ》からあべこべに嘲弄されるのに、我慢ができなかったかもしれない。そしてまた同時に、理屈で自分を困らすほどゴットフリートが利口であろうとは、かつて思いも寄らないことだった。彼はやり返してやるべき議論か悪口かを考えたが、何も見当たらなかった。ゴットフリートはつづけて言った。
「おまえがもし、ここからコブレンツまでもあるほど偉大な人になったにしろ、たった一つの歌もとうていできやすまい。」
クリストフはむっとした。
「もしこしらえたいと思ったら!……」
「思えば思うほどできないもんだ。歌をこしらえるには、あのとおりでなけりゃいけない。お聴《き》きよ……。」
月は、野の向うに、丸く輝いてのぼっていた。銀色の靄《もや》が、地面に低く、また鏡のような水の上に、漂っていた。蛙《かえる》が語り合っていた。牧場の中には、蟇《がま》の鳴く笛の音の旋律《メロディ》が聞こえていた。蟋蟀《こおろぎ》の鋭い顫音《トレモロ》は、星の閃《ひらめ》きに答えてるかと思われた。風は静かに、榛《はん》の木の枝を戦《そよ》がしていた。河の上方の丘から、鶯《うぐいす》のか弱い歌がおりてきた。
「何を歌う必要があるのか?」とゴットフリートは長い沈黙の後にほっと息をして言った――(自分自身に向かって言ってるのかクリストフに向かって言ってるのかわからなかった)――「お前がどんなものをこしらえようと、あれらの方がいっそうりっぱに歌ってるじゃないか。」
クリストフは幾度もそれら夜の音を聞いていた。しかしかつてこんなふうに聞いたことはなかった。ほんとうだ、何を人は歌う必要があるのか?……彼は心がやさしみと悲しみとでいっぱいになってくるのを感じた。牧場を、河を、空を、親しい星を、胸にかき抱きたかった。そして彼は叔父《おじ》ゴットフリートにたいする愛情に浸された。今は皆のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん賢く、いちばんりっぱに思われた。いかに彼を見誤っていたかを考えた。自分に見誤られたために叔父は悲しんでいると考えた。彼は後悔の念でいっぱいになった。こう叫びたい気がした。「叔父さん、もう悲しんではいやだ! もう意地悪はしないよ。許しておくれよ。僕は叔父さんが大好きだ!」しかし彼はあえて言い得なかった。――そしていきなり、彼はゴットフリートの腕に身を投げた。しかし文句が出なかった。彼はただくり返した。「ぼくは叔父さんが大好きだ!」そして心こめてひしと抱きしめた。ゴットフリートは驚きまた感動して、「なんだ? なんだ?」とくり返し、同じく彼を抱きしめた。――それから、彼は立ち上がり、子供の手を取り、そして言った、「帰らなけりゃならない。」クリストフは叔父から理解されなかったのではないかしらと、また悲しい気持になった。しかし二人が家に着いた時、ゴットフリートは彼に言った。「もしよかったら、また晩に、神様の音楽をききにいっしょに行こう。また他《ほか》の歌も歌ってあげよう。」そしてクリストフは、感謝の念にいっぱいになって、別れの挨拶《あいさつ》をしながら彼を抱擁した時、叔父が理解してくれてることをよく見てとった。
それ以来、二人は夕方、しばしばいっしょに散歩に出かけた。彼らは河に沿ったり野を横切ったりして、黙って歩いた。ゴットフリートはゆるやかにパイプをくゆらしていた。クリストフは少し影におびえて、彼に手を引かれていた。彼らは草の中にすわった。しばらく沈黙の後、ゴットフリートは星や雲のことを話してくれた。土や空気や水の息吹《いぶ》き、また飛んだり這《は》ったり跳ねたり泳いだりしてる、暗闇の中でうよめく小世界の生物の、歌や叫びや音、また雨や天気の前兆、また夜の交響曲《シンフォニー》の無数の楽器、それらのものを一々聞き分けることを教えてくれた。時とすると、悲しい節《ふし》や楽しい節を歌ってくれた。しかしそれはいつも同じ種類
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