ろう! 二人とも頭の中にあることを味わいながら、黙っていた。ついに老人は言った[#「言った」は底本では「言つた」]。
「どうだ、面白かったかい。」
クリストフは返辞をすることができなかった。彼はまだ激しい情緒に打たれていたし、その魅惑を破ることを恐れて口をききたくなかった。ようやく元気を出して、大きい溜息《ためいき》をつきながら低くつぶやいた。
「ええ、ええ!」
老人は微笑《ほほえ》んだ。程へて彼はまた言った。
「音楽家の職業がどんなにりっぱなものであるかわかったかい。あんなりっぱな光景を創《つく》り出すのは、この上もなく名誉なことではないか。それはこの世で神様になることだ。」
子供はびっくりした。まあ、あれを創り出したのは人間だったのか! 彼は夢にもそうだとは知らなかった。彼にはほとんど、ああいうものは独《ひと》りでにできあがったかのように思われ、自然の手になったもののように思われるのだった。……それが、いつか自分がなりたいと思ってるような、一個の人間、音楽家の手で! おう一日でも、ただ一日でもいいから、そうなりたいもんだ! そしたら……その後はどうなったってかまわない、死ぬなら死んでもいい! 彼は尋ねた。
「お祖父《じい》さん、あれをこしらえたのはなんという人なの?」
祖父はフランソア・マリー・ハスレルのことを話してきかした。ドイツの若い芸術家で、ベルリンに住んでいて、昔祖父と知り合いだった。クリストフは耳を澄してきいていた。突然彼は言った。
「そしてお祖父さんは?」
老人は身を震わした。
「なんだい?」と彼は尋ねた。
「お祖父さんもまた、あんなものをこしらえたことがあるの?」
「あるともさ。」と老人は気むずかしい声で言った。
そして彼は口をつぐんだ。五、六歩してから深い溜息《ためいき》をもらした。それこそ生涯の悲しみの一つだった。彼は常に芝居のために書きたいと望んでいたが、いつも霊感《インスピレーション》に裏切られたのだった。紙挾《かみばさ》みにはたえず、自己流の一幕物か二幕物がはいっていた。しかしその価値についてはあまり自信がなくて、かつて判断に供するの勇気がなかった。
彼らはそのままもう一言も口をきかないで、家に帰りついた。二人とも眠れなかった。老人は悲しんでいた。みずから慰めるために聖書を取上げた。――クリストフは寝床の中で、その晩の出来事をくり返してみた。些細《ささい》なことまで思い出した。素足の娘がまた眼の前に現われた。うとうとしかけると、音楽の一節が耳に響いて、管弦楽がそこに奏されてるかと思うほどはっきり聞えてきた。彼はぞっと身を震わした。頭が酔わされて、枕《まくら》の上に起き上がった。そして考えた。
「僕もいつかああいうものを書いてやろう。ああ、いつになったらそれができるかしら。」
その時以来、彼はもはや一つの願いしかもたなかった。また芝居に行くことだった。そして勉強の褒美《ほうび》に芝居へ行かしてやると言われたので、いっそう熱心に勉強を始めた。彼はもう芝居のことしか考えていなかった。一週間の半分はこの前の芝居のことを考え、他の半分は次の芝居のことを考えた。病気になって芝居へ行けなくなりはすまいかとびくびくしていた。心配のあまり三、四の病気の徴候を感ずることもしばしばだった。その日になると、食事もろくろくできず、心配ごとでもあるかのようにいらいらして、何十遍となく時計を見に行き、いつまでも日が暮れそうにないような気がし、ついには、もう我慢がしきれなくなり、席がなくなるかもしれないと気遣《きづか》って、開場の一時間も前から出かけていった。そしてがらんとしてる広間へ一番にはいって行ったので、気が揉《も》めだした。観客が十分はいらないので、役者たちは芝居をよして席料を返すことにしたことも、二、三度あったと、彼は祖父から聞いていた。彼は客がやって来るのを待受けて、その数を数え、一人で考えていた。「二十三、二十四、二十五……ああ、まだ十分でない……いつまでも十分そろわないのではないかしら?」そして桟敷《さじき》や奏楽席にある著名な人がはいって来るのを見ると、心がいくらか軽くなった。彼は考えた。「あんな人なら追い返しはすまい。きっとあの人のために芝居をやるだろう。」――しかしそれが確かかどうかはわからなかった。ようやくほっと安心するのは、楽手たちが席についてからであった。それでもまだ彼は、幕が上がって、ある晩のように、出物《だしもの》を変えると述べられはすまいかと、最後の瞬間まで心配していた。小さな眼をきょろつかして、バスひきの譜面台を覗《のぞ》き込んでは、楽譜の表題が待ち受けてる曲のそれであるかどうか見ようとした。よく見た後でも、一、二分たつとまた、見違いをしたのではないか確かめるために覗いた……。楽長がまだ席についていなかった。きっと病気かもしれなかった……。幕の向うで人々が動き回っていた。話声や忙しい足音が聞えていた。何か起こったのではないかしら、思わぬ不幸がわいてきたのではないかしら……。また静かになった。楽長が自分の位置についた。すっかり準備が整ったらしかった……。でもまだ始まらない! いったいどうしたんだろう。――彼は待遠しくてじりじりしていた。――ついに合図の柝《き》の音が響いた。彼は胸がどきどきした。管弦楽は序曲を奏しだした。そしてクリストフは数時間の間、深い幸福のうちに浸った。その幸福を煩わすものはただ、もうおしまいになりはすまいかという考えばかりだった。
それからしばらくして、音楽上の一事件がクリストフの考えを刺激した。彼を驚嘆せしめた最初の歌劇《オペラ》の作者たるフランソア・マリー・ハスレルが、やって来ることになった。そして自作の音楽会を指揮することになった。町じゅうの者が興奮した。この若い楽匠は、ドイツで激しい議論の種となっていた。そして半月ほどの間は、町じゅう彼の噂《うわさ》でもちきった。いよいよ彼が到着するとまた特別だった。メルキオルの友人やジャン・ミシェル老人の友人らは、たえず消息をもたらしてきた。この音楽家の習慣や風変わりの点について、彼らは種々な馬鹿げた噂を伝えていった。子供は熱心な注意を傾けてそれらの話を一々聞いていた。えらい人がやって来ている、この町にいる、自分と同じ空気を呼吸している。同じ舗石を踏んでいる、とそういう考えが、彼を無言の感激のうちに投げ込んでしまった。彼はもはや、その人に会いたいという希望ばかりに生きていた。
ハスレルは大公爵から歓待を申出られて、その宮邸に足を止めていた。彼は稽古《けいこ》の指図をするために劇場へ行くほか、ほとんど外出しなかった。クリストフはその劇場へはいることを許されなかった。またハスレルはごく無精だったので、いつも大公爵の馬車で往来していた。でクリストフには、彼をよくみる機会がなかなかなかった。ただ一度通り道で、馬車の奥にその毛皮の外套《がいとう》を見かけることができたばかりだった。しかしそれだけのことにも、街路を待ち受けていて野次馬の中の第一列を占め、そこから押し出されないようにと、左右に激しく拳固《げんこ》を振り回しながら、数時間費したのだった。また彼は、楽匠の室だと教えられた宮邸の窓を窺《うかが》いながら半日を過ごして、ようやく自分を慰めていた。たいていは雨戸ばかりしか見えなかった。ハスレルは朝寝坊で、窓はたいてい午前中閉められたままだった。そのために、ハスレルは日の光にたえられないで常に暗闇の中で生活してるのだと、物知り顔の人々は言っていた。
ついにクリストフは、その偉人に近づくことができた。それは公演の日だった。町じゅうの人が集まっていた。大公爵と廷臣らは、大きな貴賓席を占めていた。その桟敷《さじき》の上には、豊頬《ほうきょう》の天使が二人、足を踊らして、王冠を宙にささげていた。劇場のありさまはあたかも祭典のようだった。舞台は樫《かし》の枝や花咲いた月桂樹《げっけいじゅ》で飾られていた。多少手腕のある音楽家は皆、管弦楽団に加わるのを名誉としてた。メルキオルは自分の位置につき、ジャン・ミシェルは合唱団《コーラス》を指揮していた。
ハスレルが現われると、四方から喝采《かっさい》が起こった。婦人たちは彼の姿をよく見るために立上がった。クリストフはじっと見つめた。ハスレルは若いすっきりした顔をしていたが、それもすでに多少ふくれて疲れていた。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりは毛が薄くなっていた。縮れた金髪の間から、頭の頂上に早老の禿《はげ》が見えていた。青い眼は眼差《まなざし》がぼんやりしていた。小さな赤い口髯《くちひげ》の下に、皮肉そうな口が、眼に止まらないくらいの種々な動きにひきつって、じっとしてることは滅多になかった。背は高かった。そして、窮屈な気持のせいではないが、疲労のせいかあるいは退屈のせいかで、姿勢がしっかりしてはいなかった。ふらふらした大きな身体を、あるいはしとやかなあるいは荒っぽい身振りとともに、ちょうどその音楽のように波動させながら、自由気ままな軽快さで指揮していた。非常な神経質であることが見てもわかった。そしてその音楽は、彼自身の反映であった。躍りたった急激な彼の生命が、通例は無味平静な管弦楽の中にまではいり込んでいた。クリストフは息をはずませた。人の注目を受けはすまいかと恐れながらも、席にじっとしてることができなかった。身体を動かしたり、立上がったりした。音楽からいかにも激しいまた意外な振動を受けて、彼は頭や腕や足を動かすのを押えることができなかった。近くの人々は非常に迷惑して、できるだけ彼の乱暴な態度を避けようとした。それにまた全聴衆は、作品そのものよりもむしろその成功の方により多く魅せられて、感激しきっていた。終りに、拍手|喝采《かっさい》の嵐《あらし》が起こって、それとともにトロンペットは、ドイツの習慣として、勝利者に敬意を表するためその揚々たる響きをたてた。クリストフはそれらの名誉が自分に向けられたかのように、得意の念に躍《おど》り上がった。ハスレルの顔が子供らしい満足の色に輝いているのを、彼は見て楽しんだ。女は花を投げ、男は帽子を振った。聴衆は群り立って舞台の方へ押し寄せた。皆楽匠と握手をしたがっていた。感激した一人の婦人が彼の手を唇にもってゆくのを、また他の婦人が楽譜台の隅《すみ》に置かれてる彼のハンケチを盗んでるのを、クリストフは眼に止めた。クリストフ自身もまた、楽壇に上ってゆきたかった。しかしそれがなぜであるかはまったくわからなかった。というのは、もしその時ハスレルのそばにいたら、彼は感動のあまりすぐに逃げ出したであろうから。でも彼は自分とハスレルとを隔てる人々の着物や足の間に、自分の頭を梃《てこ》のようにつき込んでいた。――彼はあまり小さすぎた。舞台まで行くことができなかった。
幸いにも、音楽会がすむと、ハスレルのために催される夜曲《セレナード》へ連れてゆくために、祖父が彼を探しに来てくれた。夜になっていた。炬火《たいまつ》がつけられていた。管弦楽団の人々はみなそこに集まっていた。話は先刻聴いた霊妙な作品のことばかりだった。宮邸の前に着くと、人々は楽匠の窓下で静かに準備をした。ハスレルも他の人々も皆、これからやろうとすることをよく承知していたくせに、妙に取り澄ました様子を装っていた。夜の麗わしい沈黙のうちに、ハスレルのある名高い曲が奏し出された。ハスレルは大公爵とともに窓に現われた。人々は彼らの名誉のために歓声を揚げた。彼らは二人とも敬礼を返した。大公爵から遣《つか》わされた一人の従僕がやって来て、楽員たちを宮邸の中へ案内した。彼らはいくつかの広間を通っていった。広間には壁画が描かれていて、兜《かぶと》をかぶった裸体の男が現わしてあった。皆赤い色をして、挑戦的な身振りをしていた。空は海綿に以た大きな雲で覆われていた。また、鉄板の腰衣をまとった男女の大理石像もあった。人々は足音も聞えないほど柔かな絨緞《じゅうたん》の上を歩いていっ
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