ドのようなフルートの声……。景色は消えてしまった。河は消え失せてしまった。柔かな薄ら明るい大気が漂っている。クリストフの心は感動のあまり震えてくる。今や眼に見えるのは? おう麗わしい種々の面影!――栗《くり》色の髪を縮らした小娘が彼を呼んでいる、なよやかなまた揶揄《からか》うような様子で……。碧眼《へきがん》の幼い少年の蒼《あお》い顔が、憂わしげに彼を眺めている……。その他いろんな笑顔や眼付――見つめられると顔が真赤になるような、物珍らしげな挑《いど》みかかる眼――犬のやさしい眼付のような、愛を含んだ切ない眼――または厳《いか》めしい眼、または苦悶の眼……。それから、口元のしまった黒髪の蒼ざめた女の面影、その眼は顔の半ばを覆いつくすかと思われるほど大きく開かれて、苦しくなるほど激しく彼を見つめている……。それから、すべてのうちで最もなつかしいのは、澄みきった灰色の眼と、心もち開いた口と、光ってる細かな歯並とで、彼に微笑《ほほえ》みかけてくれる面影……。ああ、その寛大な愛深い麗わしい微笑み! それはやさしい愛情で人の心を溶かしてしまう。いかに人を喜ばすことか! いかに人から好かれることか! もっと! もっと微笑みかけてくれ! 消え去ってはいけない!――ああ、悲しくもそれは消え失せてしまう。しかし人の心に得もいえぬやさしみを残してくれる。もうつらいことは少しもない、悲しいことは少しもない、もう何もない……。ただ軽やかな夢ばかり、夏の麗わしい日に見られる聖母の糸(空中にかかって浮んでる蜘蛛の糸――訳者)のように太陽の光線の中に漂ってる、朗らかな楽《がく》の音《ね》ばかり……。――では今しがた通り過ぎたのはなんだろう? 胸騒がしい情熱を子供心にしみ込ませるあれらの姿はなんだろう? かつて彼はまだそれらの姿を見たことがなかった。けれども彼はそれらを知っていた。見覚えがあった。それらはどこから来るのか? 「存在」のいかなる薄暗い深淵《しんえん》から来るのか? すでにあったものからなのか、……あるいはやがてあろうとするものからなのか?……
今や、すべては消え失せ、すべての形は溶け去ってしまう……。最後にも一度、靄《もや》のヴェールを通して、あたかも高くを翔《かけ》ってる時のように、しかも自分の上の方に、満々と湛《たた》えた河が、野を覆いながら、おごそかに流れながら、ゆるやかなほとんど不動の姿で、現われてくる。そしてはるか遠くには、地平のはての鋼鉄の光のようにして、水の平野が、震える水の一線がある――海が。河はその海へ奔《はし》っている。また海は河へ奔ってるがようである。海は河を吸い寄せる。河は海を慕う。河は海に隠れようとしている……。音楽は渦《うず》巻き、舞踊の麗わしい節奏は狂わしいまでに揺り動く。その勝ち誇った旋風の中に、すべてが巻き込まれて一掃される……。自由な魂が宙をかすめて翔《かけ》る、空気に酔いながら鋭い声を発して空を横ぎる、燕《つばめ》の飛翔《ひしょう》のように。……歓喜、歓喜! もはや何物もない! おう、限りなき幸福!……
時間は過ぎていった。夕暮になっていた。階段は闇《やみ》に包まれていた。雨のつぶが、河の平らな面《おもて》に丸い輪を描くと、流れが踊りつつそれを運んでいった。時おりは、木の枝が、黒い樹皮が、音もなく通りかかって、過ぎ去っていった。毒蜘蛛は、餌《えさ》を食いあきて、いちばん暗い片|隅《すみ》に引込んでしまった。――そして小さなクリストフは、よごれた蒼白い顔を幸福の色に輝かしながら、いつまでも軒窓の縁にもたれていた。彼は眠っていた。
[#改ページ]
三
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太陽は闇を被《かず》きて現われぬ……
――神曲、煉獄の巻、第三十章――
[#ここで字下げ終わり]
我意を折らなければならなかった。痛烈な反抗心を執拗《しつよう》に押し通してはみたが、ついに彼の悪意は打擲《ちょうちゃく》にうち負けてしまった。毎日朝と晩に三時間ずつ、クリストフは責道具の前に引据えられた。注意と不愉快とにたまらなくなり、頬《ほお》や鼻に大粒の涙を流しながら、彼は白や黒の鍵《キイ》の上に小さな赤い手を動かした。音符を間違えることに打ちおろされる定規の下に、またその打擲よりいっそう忌わしい師の喚《わめ》き声の下に、彼の手は寒さに凍えてることがしばしばだった。音楽は嫌《きら》いだと彼は考えていた。それでも熱心に努めていた。その熱心さは、メルキオルを恐《こわ》がってるというせいばかりでもなかった。祖父のある言葉が彼に深い印象を与えていた。祖父は孫が泣くのを見て、重々しい調子で言ってきかした、人間の慰謝と光栄とのために与えられている最高最美の芸術のためになら、多少の苦しみは忍ぶに甲斐《かい》のあることだと。クリストフは[#「クリストフは」は底本では「クリストスは」]祖父から大人並に話しかけられるのを感謝していて、その質朴《しつぼく》な言葉に内心動かされた。彼の子供らしい堅忍と生まれながらの傲慢《ごうまん》とは、その言葉をよく受けいれた。
しかしいかなる議論よりも、ある音楽的な情緒についての深い記憶の方がより強く、彼がいたずらに反抗せんと試みていたその厭《いや》な芸術に、一生涯彼を知らず知らずのうちに結びつけ、彼を奉仕せしめた。
ドイツの風習として、この町にも一つの劇場があって、歌劇《オペラ》、喜歌劇《オペラコミック》、軽歌劇《オペレット》、正劇《ドラマ》、喜劇《コメディー》、俗謡劇《ヴォードヴィル》、その他およそ上演できるものならいかなる種類のものもいかなる体裁のものも皆演ぜられていた。開演は一週に三度で、晩の六時から九時までだった。ジャン・ミシェル老人は一度も見物を欠かしたことがなく、どの出物《だしもの》にたいしても同じ興味を示していた。一度孫をいっしょに連れてってやった。数日前から彼にその劇の内容を長々と語ってきかした。クリストフにはそれが少しも了解できなかった。しかし恐ろしいことが起こるということを感じた。そして見たくてたまらなくなりながらも、たいへん恐《こわ》がっていた。暴風雨が起こることを知っていて、雷に打たれはしないかを恐れていた。戦《いくさ》があることを知っていて、自分も殺されはすまいかとびくびくしていた。前日、寝床の中で、彼はほんとうに苦しんだ。開演の日になると、祖父が何かさしつかえで来られなくなればいいがと願いたいくらいだった。しかし時間が迫ってくるのに祖父がやって来ないと、非常に悲しくなりだして、たえず窓から覗《のぞ》いた。ついに老人はやって来、二人はいっしょに出かけた。彼は胸がどきどきした。舌が乾ききって、一言も物をいうことができなかった。
彼らは家でしばしば話の種になってるその不思議な殿堂に到着した。入口でジャン・ミシェルはいく人もの知人に出会った。子供は彼にはぐれるのを非常に恐れて、強くその手にすがりついていた。そしてこんな場合にどうして皆が平然と話したり笑ったりしていられるか、少しもわからなかった。
祖父は管弦楽《オーケストラ》の後ろの第一列の定席についた。彼は手摺《てすり》によりかかって、すぐにバスひきとのべつに話をやり出した。そこは彼の得意の壇場《だんじょう》だった。彼は音楽の権威だったから人々から謹聴された。彼はそれに乗じていた。図に乗ってるともいえるほどだった。クリストフの方は何にも聞くことができなかった。彼は芝居が待ち遠しくてたまらなかったし、宮殿のように思われる広間の光景に威圧され、恐ろしいほど込み合ってる看客に威圧されていた。皆の視線が自分に向けられてるように思って、後ろをふり返るだけの勇気もなかった。小さな帽子を膝《ひざ》の間にはさんでびくびくしながら、眼を丸くして不思議な幕を見つめていた。
ついに柝《き》の音が三つ響いた。祖父は鼻をかんで、ポケットから台本《リヴレット》を取出した。彼はいつもその台本を丹念にたどることを欠かさないで、時としては舞台で演ぜられてることを忘れるくらいだったのである。管弦楽《オーケストラ》が始まった。最初の和音を聞くや否や、クリストフは心が落着くのを感じた。その音響の世界では、自分の家のような気がした。それから先はもう、舞台にどんな不思議なことが起ころうと、すべて自然であるように思われた。
幕が上がって、厚紙の樹木やほんとうらしくない人物などが現われた。子供は感心して口をぼんやり開きながら眺めた。しかしびっくりしてはいなかった。それでも劇は、彼が思いもつかない夢のような近東の事柄だった。劇詩の筋は荒唐無稽《こうとうむけい》で、まったく訳がわからなかった。クリストフは何にも見分けることができなかった。彼はすべてを混同し、人物を取り違え、祖父の袖《そで》を引張っては、何も理解していないことがわかるような馬鹿《ばか》げた質問をやたらにした。しかも彼は退屈してないばかりでなく、夢中になって面白がっていた。つまらない台本《リヴレット》にもとづいて、みずから一つの小説を作り上げていたが、それは演ぜられてることとまったく無関係なものだった。舞台の出来事はたえずその小説と背馳《はいち》するので、また新たに筋を立て直さなければならなかった。しかし彼はそれに困らされはしなかった。舞台の上で種々な声を出して進展してゆく人物のうちから、自分の気に入る者を選んで、それに同情を寄せながら、その運命がどうなりゆくかと胸を震わして見守っていた。とくに彼の心を悩ましたのは、中年の美しい女であって、輝いた長い金髪をもち、眼が馬鹿に大きくて、素足で歩いていた。演出の驚くべき不自然さも、彼の気を少しもそこなわなかった。大きくでぶでぶ太ってる俳優らの醜怪な様子、二列に並んでるどこから見ても無格好な合唱団、所作の幼稚さ、喚《わめ》いて充血してる顔付、毛の乱れてる鬘《かつら》、テナー歌手の高い靴《くつ》の踵《かかと》、種々な顔料で顔を彩色してるその恋女の粉飾、そういうものをも、子供の鋭い眼は見落としていた。彼はちょうど、情熱のために相手の真相が眼につかない恋人のような状態になっていた。子供に特有な驚くべき幻想の力は、不快な感覚を中途で引止めて、それを適宜に変形さしていった。
音楽がそういう奇跡を行なっていた。音楽はすべてのものを薄靄《うすもや》の大気に包み込んで、すべてを美しく気高く快くなした。人の心に激しい愛の欲求を伝えた。と同時に、そういう心の空虚を満さしてやるために、愛の幻をさしつけてくれた。小さなクリストフは激しい情緒に駆られていた。音楽の種々な言葉や身振や文句は、彼の心を落着かせなかった。彼はもう眼をあげる元気もなかった。よいのか悪いのかもわからなかった。赤くなったり蒼《あお》くなったりした。そして額には玉の汗が出てきた。まわりの人たちから自分の悩みが気づかれはすまいかとびくびくしていた。歌劇《オペラ》の四幕目になって、テナー歌手と主役女優《プリマドンナ》にその最も鋭い声を発揮させる機会を与えんために、免れがたい破局が恋人らの上に落ちかかってきた時、彼は息がつまるような気がした。風邪《かぜ》をひいた時のように喉《のど》が痛くなった。両手で首をかかえて、唾《つば》をのみ込むこともできなくなった。涙があふれてきた。幸いなことには、祖父も大して劣らないくらいに感動していた。彼は子供のような無邪気さで芝居に見とれていた。劇的場面になると、心の動揺を隠すために何気ない様子で咳《せき》をした。しかしクリストフにはよくわかった。彼はそれが嬉《うれ》しかった。おそろしく暑かった。眠気がさしてきた。たいへんすわり心地が悪かった。しかし彼はこんなことばかり考えていた。
「もっと長くつづくかしら。おしまいにならなければいいが!」
そして突然、すべてが片づいた。なぜだか彼にはわからなかった。幕が降りた。皆立ち上がった。感興は中断された。
二人の赤ん坊たる老人と子供とは、いっしょに夜のうちを帰途についた。なんという麗わしい夜だろう! なんという静かな月の光だ
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