忍び足ではいって来て、少し高すぎる鍵盤の前にすわってる子供のところへふいに現われたあの日、メルキオルは子供を観察したのだった。そしてある輝かしい思いが彼の頭に浮かんだのである。「神童だ!……どうして今まで気づかなかったんだろう。……家にとってはこの上もない仕合せだ!……こいつは母親のように百姓の子にすぎないと思い込んでいたが、しかしためしてみたって別に損するわけじゃない。運が向いてきたぞ! ドイツじゅうを連れ回り、外国へも連れ回ってやろう。面白いしかも高尚な世渡りだ。」――メルキオルはいつも、自分のあらゆる行為のうちに、隠れた高尚な点を捜さないではおかなかった。そしてたいていは高尚な点を見出すのだった。
右のような確信を強くいだいていたので、彼は夕食の最後の一口を食い終えると、すぐにまた子供をピアノの前に押しつけ、その日教えたところをくり返さして、子供の眼が疲れに閉じてくるまでやらした。それから、翌日は三度|稽古《けいこ》をさした。翌々日も同じだった。引きつづいて毎日そうした。クリストフはじきに倦《あ》いてきた。次にはたまらないほど厭《いや》になった。ついにはもう辛抱ができなくて、逆らおうとした。やらせられることはまったく無意味なことだった。親指をちょこちょこやりながら鍵《キイ》の上をできるだけ早く飛び回ることや、二本の隣りの指の間にぎごちなくこびりついてる薬指をしなやかにすることだった。やってると神経がいらいらしてくるし、ちっとも面白くなかった。魔法めいた共鳴音も、魅惑するような怪物も、一時予感される夢の世界も……すべてなくなってしまった。音階と練習とがつづくばかりで、しかもそれは乾燥で、単調で、無味であって、いつも食物のことに、きまりきった食物のことに及んでゆく食事時の会話より、いっそう無味なものであった。子供はただぼんやりと父親の教えを聞くようになり始めた。きびしく叱りつけられると、厭々《いやいや》ながらやりつづけた。叱責《しっせき》はすぐにやってきた。彼は最も底意地悪い機嫌《きげん》をそれに対抗さした。最もいけなかったことには、ある晩、隣りの室でメルキオルが将来の計画を洩らすのを聞いてしまった。こういうふうに苦しめられるのも、毎日むり強《じ》いに象牙《ぞうげ》の片を動かさせられるのも、賢い動物として見世物にされるためであったのか! 彼はもう親しい河を訪れに行くだけの隙《すき》ももたなかった。どういう訳で自分はこういじめられてばかりいるのか。――彼は自尊心と自由とを傷つけられて憤慨した。もう決して音楽をやるまい、やるにしてもできるだけ下手《へた》にやってやろう、そして父を落胆さしてやろう、と彼は決心した。多少ひどすぎる考えかもしれなかったが、しかし彼は自分の独立を救い出さなければならなかった。
その次の稽古の時から、彼は計画を実行しようと試みた。彼はわざと、違った鍵《キイ》をたたいて調子をはずそうとした。メルキオルは叫びたて、次には喚《わめ》きたてた。やたらに殴りつけ始めた。彼は頑丈《がんじょう》な定規をもっていた。子供が音符を間違えるたびに、定規でその指を打ち、同時に、聾にならせるほど耳もとで怒鳴りちらした。クリストフは苦痛に顔をしかめた。泣くまいとして唇《くちびる》をかみしめ、打たれそうなので首を肩に引っこめながら、じっと我慢して、むちゃくちゃに音符をひきつづけた。しかしやり方がまずかった。長くたたないうちに気づかれた。メルキオルは彼に劣らず意地張りだった。たとい二人で二日二晩やりつづけても、正確にひかれるまでは一つの音符の間違いも許さない、と彼は言い張った。クリストフの方では、正しくひくまいとあまりに念を入れすぎた。主調ごとに、明らさまな悪意で小さな手が重々しくわきへそらされるのを見て、メルキオルはその狡猾《こうかつ》な策略を勘づき始めた。定規がさらにひどく振りおろされた。クリストフはもう指の感じをも失った。黙って、嗚咽《おえつ》や涙をすすり込み飲み込みながら、いじらしく泣いていた。そして、こんなふうにつづけてもなんの得にもならないし、捨てばちな道をとった方がいいとさとった。彼はひくのをやめて、これから起ころうとする嵐《あらし》を思っては前もって震え上がりながらも、大胆に言ってのけた。
「お父さん、僕はもうひきたくない。」
メルキオルは息をつめた。
「なに、なに!……」と彼は叫んだ。
彼はクリストフの腕を折れるほど揺ぶった。クリストフはますます震え上がって、殴られるのを避けようと肱《ひじ》を上げながら、言いつづけた。
「もう弾《ひ》きたくない。第一、打たれたくないし、それから……。」
彼は言い終えることができなかった。ひどく頬辺《ほおぺた》を打たれて息がつまった。メルキオルは喚きたてていた。
「うむ! 打たれたくないんだって、打たれたく……。」
拳固《げんこ》の霰《あられ》が降った。クリストフはすすり泣きの間から絶叫していた。
「それから……音楽はいやだ!……音楽は嫌《きら》いだ!……」
彼は席から滑り落ちた。メルキオルは手荒く彼をまたすわり直させ、手首を掴《つか》んで鍵盤にぶっつけた。彼は叫んでいた。
「ひくんだ!」
クリストフは叫んでいた。
「いや、いや、弾《ひ》くもんか!」
メルキオルは諦《あきら》めなければならなかった。彼はクリストフを扉のところへ引張ってゆきながら、一か所も間違えずに練習をしてしまわないうちは、一日じゅう、一月じゅう、食物を与えないと言った。後ろから彼を蹴《け》り出して、ばたりと扉を閉めきった。
クリストフは階段の中途にたたずんだ。きたない薄暗い階段で、踏段は虫に食われていた。軒窓のガラスの壊れたところから、風が吹き込んでいた。湿気で壁がじめじめしていた。クリストフは脂《あぶら》じみた踏段に腰を降ろした。胸の中は、憤怒と激情とで心臓がどきついていた。小声で彼は父をののしった。
「畜生、まったくそうだ! 畜生!……下司《げす》野郎……人非人《にんぴにん》! そうだ人非人だ!……おれは大嫌いだ。大嫌いだ。……死んじまうがいいや、死にやがれ!」
彼は胸がいっぱいになっていた。ねちねちした階段を、壊れた窓ガラスの上に風に揺られてる蜘蛛《くも》の巣を、絶望的に眺めていた。不幸の中に一人ぽっちで落ち込んだような気持だった。彼は手摺《てすり》の棒の間の空間を眺めた。……もし下に飛び降りたら?……あるいは窓からでも?……そうだ、懲《こ》らしめのために自殺してやったら? 彼奴《あいつ》らはどんなに後悔するだろう! 自分が階段から落ちる音が耳に響いた! 上の扉が急いで開かれた。悲痛な声が叫んでいた、「あれが落《おっ》こった! 落こった!」足音が階段をころび降りてきた。父が、母が、泣きながら彼の身体にとびついた。母はすすり上げていた、「あなたのせいです、あなたがこの子を殺したんです!」父は腕を振り動かし、ひざまずき、手摺に頭をぶっつけながら、叫んでいた、「おれが悪いんだ、おれが悪いんだ!」――そういう光景は、彼の苦しみを和らげた。彼は嘆いてる人たちを憐れもうとしかけた。しかし、彼等にはこれがちょうどいい報いだと後から考えた。そして復讐の光景を味わった……。
自分で作り出した話を終えてしまった時、彼はまた暗い階段の上に上っていた。彼はも一度下を覗《のぞ》いた。するともう少しも飛び降りたい気がしなかった。ちょっと身震いさえして、落ちるかもしれないと思いながらその端から遠のいた。その時彼は、まったく囚《とら》われの身なのを感じた。あわれな籠《かご》の鳥のようで、永久に囚われの身であり、頭を割るか大|我怪《けが》をするかよりほかに逃げ道はなかった。彼は泣きに泣いた。きたない手で眼をこすっていたので、すぐに顔じゅう真黒になってしまった。そして泣きながらも、あたりのものを見つづけていた。それで気がまぎらされた。彼はちょっと泣声をやめて、動き出した蜘蛛《くも》を眺《なが》めた。それからまた泣きだしたが、前ほど本気ではなかった。自分の泣声に耳を澄していた。もうなぜだかよくもわからずにただ機械的な泣声をつづけていた。やがて彼は立ち上がった。窓に引きつけられたのである。彼は窓の内側に腰掛け、用心深く身体を奥の方に引込ませて、面白くもあるがまた厭《いや》な気もする蜘蛛を、じろじろ横目で見守った。
下には家のすぐそばをライン河が流れていた。階段の窓から覗《のぞ》くと、河の真上になっていて、揺らめく空中にいるがようだった。クリストフは一段一段と階段を降りてゆく時、いつも欠かさずその河を眺めたのだった。しかしまだかつて、その日のように河を見たことはなかった。悲痛は感覚を鋭利にする。色|褪《あ》せた記憶の跡が涙に洗われた後には、すべてが眼の中によりよく刻み込まれるらしい。子供には河が生物のように見えた――不可解な生物、しかも彼が知ってる何よりもいく倍となく力強い生物! クリストフはなおよく見るために身を乗り出した。窓ガラスの上に口をあて鼻を押しつけた。彼[#「彼」に傍点]はどこへ行こうとしているのか? 彼[#「彼」に傍点]は何を望んでいるのか? 彼[#「彼」に傍点]は自分の道を信じきってるような様子である。……何物も彼[#「彼」に傍点]を止めることはできない。昼も夜もいかなる時でも、雨が降ろうと日が照ろうと、家の中に喜びがあろうと悲しみがあろうと、彼[#「彼」に傍点]は流れつづけている。すべて何事も彼[#「彼」に傍点]にとってはどうでもいいことらしい。彼[#「彼」に傍点]はかつて苦しんだことがなく、常に自分の力を楽しんでいるらしい。彼[#「彼」に傍点]のようだったら、どんなに愉快だろう! 牧場や、柳の枝や、光ってる小石や、さらさらした砂や、そういうものの間を分けて走り、何物にも気をもまず、何物にも煩わされず、まったくの自由である、そうなったらどんなに愉快だろう!……。
子供は貪《むさぼ》るように眺めまた聴いていた。河に運ばれてるような気がした……。眼をつぶると、青や緑や黄や赤などの色が見えてき、過ぎゆく大きな影や、一面に降り注ぐ日の光が、見えてくる。……映像はしだいにはっきりとなる。それ、広い平野、葦《あし》の茂み、新鮮な草や薄荷《はっか》の匂いがする微風に波打っている畑の作物。至るところに花が咲いている、矢車草、罌粟《けし》、菫《すみれ》。なんと美しいことだろう! なんと快い空気だろう! 密生した柔かな草の中に寝転んだら、さぞ気持がいいだろう!
……祝いの日に、ライン産の葡萄酒《ぶどうしゅ》を少しばかり、大きな杯に父からついでもらった時のように、クリストフは心|嬉《うれ》しくて、少しぼーっとした心地になってくる……。――河は流れてゆく……。景色が変わる……。こんどは、水の上に覗《のぞ》き出た木立。歯形に切れてる木の葉は、小さな手のような形をして、河の中に浸り動き裏返っている。木立の間には、一つの村落が河に映っている。流れに洗われてる白壁の上には、墓地の糸杉や十字架が見えている。……次には、種々な岩、立ち並んだ山、傾斜地の葡萄畑、小さな樅《もみ》の林、荒廃した城《ブルク》……。それからまた、平野、作物、小鳥、日の光……。
緑色の満々たる河水は、ただ一つの思想のように一体をなして、波も立てず、ほとんど皺《しわ》も寄せず、脂《あぶら》ぎって光ってる水形模様を見せながら、流れつづける。クリストフはもうそれを眼には見ない。彼はその音をなおよく聞くために、眼をすっかり閉じている。たえざる水音は彼の心を満たし、彼に眩暈《めまい》を与える。その覆《おお》いかぶさってくる悠久《ゆうきゅう》な夢に彼は吸い寄せられる。河水の騒々しい基調の上に、急調の律動《リズム》が激しい愉悦をもって飛び出してくる。そしてそれらの節奏《リズム》のまにまに、棚《たな》に葡萄蔓《ぶどうづる》がよじ上るように、種々の音楽が高まってくる、銀音の鍵盤から出る白銀の琶音《アルペジオ》、悩ましいヴァイオリンの響き、円《まろ》やかな音調のビロー
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