。――そしてこの食欲は、ブラームスとベートーヴェンとの間に差別もつけないし、または、同じ楽匠の作品でさえあれば、空虚な協奏曲《コンセルト》と感銘深い奏鳴曲《ソナタ》との間に差別も設けない、なぜなら二つとも同じ捏粉《ねりこ》でできてるから。
 クリストフは一同から離れて、ピアノの後ろの自分だけの片隅に隠れていた。そこではだれも彼を邪魔することはできなかった。四つ這《ば》いにならなければはいれなかったから。そこは薄暗かった。そして子供には、身を縮めて床板の上に寝ておれるだけの場所があった。たばこの煙が彼の眼や喉《のど》にはいってきた。また埃《ほこり》もはいった。羊の毛みたいに大きな総《ふさ》をなした埃もあった。しかし彼はそんなものに気を留めなかった。トルコ風に膝頭ですわって、きたない小さな指先でピアノの掛布の穴を広げながら、しかつめらしく耳を傾けていた。彼は演奏される曲をことごとく好きにはなれなかった。けれども一つとして退屈になるものはなかった。彼は決して批評がましい意見をたてようとはしなかった。なぜなら、自分はまだあまり小さすぎると思っていたし、音楽のことは何にも知らないと思っていたから。ただそれを聞いていると、あるいはうとうととしたり、あるいは眼を覚ましたりした。いずれの場合にも不快な感じは受けなかった。彼はみずから気づきはしなかったが、彼を興奮させるのはたいていいつもいい音楽であった。だれにも見られっこはないと安心していたので、顔じゅうで種々な渋面《しかめつら》をした。鼻に皺《しわ》を寄せ、歯をくいしばり、舌を出し、怒った眼付や悲しい眼付をし、喧嘩《けんか》腰の元気な様子で腕や足を動かし、また、歩き出したくなり、殴り回りたくなり、世界を粉|微塵《みじん》にしてやりたくなった。そしてあまり暴れていたので、ついにピアノ越しに覗《のぞ》き込まれて、怒鳴りつけられた。「おい、お前気違いか。ピアノからどけ、手を離せ。耳を引張るぞ!」――それで彼は当惑しまた癪《しゃく》にさわった。なぜ自分の楽しみを邪魔するのか。何も悪いことをしたわけではない。いつもいじめつけられてばかりいなければならないのか! 父も小言の仲間にはいった。彼は騒がしい真似《まね》をするといって叱《しか》られ、音楽を好かないのだといって叱られた。しまいには彼自身も音楽を好かないのだと思い込んでしまった。――もし、そこにいる人たちのうちでほんとうに音楽を感じているのは、その小さな子供一人きりだと言われたら、協奏曲《コンセルト》をこね回してる善良な人々はさぞ驚いたであろう。
 もし彼に静かにしていてもらいたいのなら、なぜ人を歩かせるような曲を演奏してきかせたのか。それらのページのうちには、悍馬《かんば》、剣、戦《いくさ》の叫び、勝利の驕慢《きょうまん》、などが含まれていたのである。しかも彼らは、彼にも同じように、頭を振ったり足拍子を取ったりするだけでいてもらいたかったのである。それならばただ、のどかな夢幻の曲か、いくらしゃべってもなんの意味をも語らない饒舌《じょうぜつ》なページかを、演奏してやりさえすればよかったのだ。たとえば、ゴルトマルクの曲でもよかった。老時計商は先刻|歓《よろこ》ばしい笑顔をして、その楽曲のことを言った。「実にいい。荒っぽいところがない。どの角《かど》も丸くなってる……。」その時には子供はごく静かだった。うとうとしていた。何が弾奏されてるか知らなかった。しまいにはもう何も聞えなくなった。しかしいい気持だった。手足がけだるくなって、うつらうつら夢みていた。
 彼の夢は筋の通った話ではなかった。頭も尾もなかった。辛《かろ》うじて時々はっきりした象《すがた》を見るだけだった。菓子をこしらえながら、指の間に残ってる捏粉《ねりこ》を包丁で取ってる母親――前日河に泳いでるところを見かけた溝鼠《どぶねずみ》――柳の枝でこしらえたいと思っていた鞭《むち》……。それらの記憶がどうして今彼に浮かんできたかは、神のみが知るところである。――しかしたいていは、まったく何も見えなかった。それでもたくさんのものを感じていた。何かきわめて大切なものが山ほどあるかのようだった、いつも同じようにしてるので、またはっきり知れきってるので、口にいうことができないような、あるいは言っても無駄《むだ》なような、きわめて大切なものが。その中には、悲しいのもあった、死ぬほど悲しいのもあった。けれどそれらは、人生において出会うのと違って、なんら苦しいところをもたなかった。父から殴られた時のように、あるいは恥ずかしさで胸をしぼりながら何かの屈辱を考える時のように、醜くもなければ卑《いや》しくもなかった。ただ憂鬱《ゆううつ》な静けさで頭がいっぱいになった。それからまた、喜びをどっとふりまいてくれる輝かしい
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