すか》そうとつとめる。しかし彼らはただ噛みつくことばかり望んでいる。熱があるのだ。クリストフは彼らがどういう考えだか知らない。彼らは彼を引きつけ、彼の心を乱させる。彼にほとんど顔を赤らめさせる。――またある時は、たがいに愛し合う音調がある。人が口づけする時腕で抱き合うように、その音はたがいにからみ合う。優美でやさしい。よい精霊なのである。皺《しわ》のない微笑《ほほえ》んだ顔をしている。彼らは小さなクリストフを愛し、小さなクリストフも彼らを愛する。彼は彼らの声を聞いて眼に涙をためる。幾度呼び出しても倦《あ》きない。彼らは彼の友だちである、親しい友だち、やさしい友だちである……。
 かくて子供は音響の森の中を逍遙《しょうよう》する。自分のまわりに無数の知らない力を感ずる。それらの力は彼を待受け、彼を呼びかけ、そして彼を愛撫《あいぶ》せんとし、あるいは彼を呑噬《どんぜい》せんとする……。
 ある日、そういう最中にメルキオルが突然やって来た。クリストフは例の太い声をかけられたので恐ろしさに飛び上がった。彼は悪いことをしてたような気がして、両手で急いで耳をふさぎ、恐るべき怒鳴り声をきくまいとした。しかしメルキオルはいつになく叱りつけなかった。上機嫌《じょうきげん》で笑っていた。
「じゃあお前にも面白いんだな。」と彼はやさしくクリストフの頭をたたきながら尋ねた。「ひき方を教えてもらいたいか。」
 教えてもらいたいかって!……彼は夢中になって「ええ」とつぶやいた。そして二人ともピアノの前にすわった。クリストフはこんどは大きな書物をつみ重ねた上に身を落着けた。ごく熱心に最初の稽古《けいこ》を受けた。彼はまず、それらの大きい声を出す精霊は、一|綴《つづ》りかまたはただ一文字かの、支那にでもありそうな妙な名前をもってるのを知った。彼はびっくりした。彼はもっと違った名前を想像していた。仙女《せんにょ》物語に出てくる女王のような、やさしい美しい名前を想像していた。それらにたいする父のなれなれしい口のきき方が気に入らなかった。そのうえ、メルキオルに呼び出される時には、もう同じ精霊ではなかった。その指下から飛び出すと、冷淡なふうをしていた。それでもクリストフは、彼らの間にある関係を覚え、彼らの階級を覚え、一軍を率いる帝王に似ていたり一群の黒奴の並列に似ていたりする音階を覚えると、嬉《うれ》しくなった。各兵士は、あるいは各黒奴は、めいめい帝王にもなれるし、同じような隊列の先頭にもなれるし、また鍵盤の先から端まで、全部の隊を展開させることもできるので、彼はそれを見てびっくりした。それらを行進させる筋道をたどってゆくと面白かった。しかしそういうことも、彼が最初見たものよりずっと幼稚になってしまった。不可思議な森はもう見出せなくなった。でも彼は熱心につとめた。なぜならつまらないことではなかったから。そして父の根気にも驚かされた。メルキオルは決して倦《あ》かなかった。同じことを十遍もくり返さした。そんなに骨折ってくれる訳がクリストフにはわからなかった。では父が自分を愛してくれてるのか。なんと親切なことだろう! 子供は感謝の念で心がいっぱいになって、非常に努めた。
 師の頭にどういう考えが浮かんだかを知っていたら、彼はそれほど嬉しがりはしなかったろう。

 その日以来、メルキオルは彼を隣家に連れていった。そこでは一週間に三回、室内音楽会が催されていた。メルキオルは第一ヴァイオリンをひき、ジャン・ミシェルはチェロを弾《ひ》いた。他の二人は、銀行員とシルレル街の老時計商とであった。時々、薬剤師もそれに加わって、フルートをもって来た。五時に集まって、九時までかかるのだった。楽曲を一つ終えるごとにビールを飲んだ。近所の人々が室に出はいりして、黙って耳を傾け、壁にもたれて立ち、頭を振り、足で調子を取り、そしてたばこの煙を室いっぱいにたてた。楽譜のページからページへ、曲から曲へ移っても、演奏者らの根気は疲れることがなかった。彼らは口をきかず、注意をこらし、額に皺《しわ》をよせ、時々愉快のあまりうなり声を出していたが、もとより、楽曲の美を表現することがまったくできないばかりでなく、それを感ずることさえできなかったのである。ごく正確に弾奏してもいなかったし、拍子正しく演奏してもいなかったが、しかし脱線することはなく、印《しる》されてるニュアンスを忠実にたどっていた。わずかなことで満足する音楽上の無造作さと、世界で最も音楽的だといわれる人種のうちに充満してる完成した凡庸《ぼんよう》さとを、彼らはそなえていた。量さえ多ければ質のいかんをあまり気にしない趣味の貪欲《どんよく》性をもそなえていた。そういう健啖《けんたん》な食欲にとっては、実量が多ければ多いほどどんな音楽でも上等のものとなる
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