ものもあった。クリストフは考えた。「そうだ、こんなに[#「こんなに」に傍点]……こんなに[#「こんなに」に傍点]、私もやがてしよう。」どうしてこんなに[#「こんなに」に傍点]だか、なぜそんなことを言うのか、彼は自分で少しも知らなかった。しかし、そう言わなければならない、それは白日のように明白なことだと、彼は感じていた。海の音が聞こえていた。海はすぐ近くにあって、ただ砂丘の壁で隔てられてるだけだった。その海がどういうものであるか、海が自分に何を望んでいるかは、少しもわからなかった。しかし彼ははっきり意識していた、海はやがて障害をのり越えて高まってくるだろうということを、そして、その時こそは……。その時こそは、素敵だろう、自分はまったく幸福になるだろう。海の音を聞くだけでも、その大きな声の響きに揺られるだけでも、あらゆる屈辱や小さな悲痛などは、ことごとく鎮《しず》められてしまった。それらはやはり悲しいものではあったが、もはや恥ずかしいものでもなく、心を傷つけるものでもなかった。すべてが自然らしく思われ、温和な気にほとんど充ちてるらしく思われた。
 多くは、凡庸《ぼんよう》な音楽がそういう陶酔を彼にもたらした。かかる音楽を書いたのは、憐《あわ》れむべき賤《いや》しい人々であって、彼らの考えていたことはただ、金を得んとすることばかりであり、あるいは、一般に認められた形式に従って、または――独創家たらんがために――形式を無視して、とにかく音符をいっしょによせ集めながら、おのれの生活の空虚の上に幻をうち立てんとすることばかりであった。しかし音響の中には、愚人に取扱われたものの中にさえ、非常な生命の力が潜んでいて、無邪気な魂の中に感激を起こさせることができるものである。おそらくは、愚人の暗示する幻影も、強烈な思想に吹き起こされて人を無理に巻き込む幻影にくらぶれば、いっそう神秘であり自由であろう。なぜなら、いたずらな運動と空虚な饒舌《じょうぜつ》とは、自己観照の精神を煩《わずら》わすことがないから……。
 かくて子供は、皆に忘れられ、すべてを忘れて、ピアノの隅にじっとしていた。――しまいには、蟻が足に這《は》い上がってくるのを不意に感じた。すると、自分は真黒な爪《つめ》をした小さな子供であることを思い出し、両手で足をかかえながら鼻を壁にすりつけてることに気づいた。

 メルキオルが忍び足ではいって来て、少し高すぎる鍵盤の前にすわってる子供のところへふいに現われたあの日、メルキオルは子供を観察したのだった。そしてある輝かしい思いが彼の頭に浮かんだのである。「神童だ!……どうして今まで気づかなかったんだろう。……家にとってはこの上もない仕合せだ!……こいつは母親のように百姓の子にすぎないと思い込んでいたが、しかしためしてみたって別に損するわけじゃない。運が向いてきたぞ! ドイツじゅうを連れ回り、外国へも連れ回ってやろう。面白いしかも高尚な世渡りだ。」――メルキオルはいつも、自分のあらゆる行為のうちに、隠れた高尚な点を捜さないではおかなかった。そしてたいていは高尚な点を見出すのだった。
 右のような確信を強くいだいていたので、彼は夕食の最後の一口を食い終えると、すぐにまた子供をピアノの前に押しつけ、その日教えたところをくり返さして、子供の眼が疲れに閉じてくるまでやらした。それから、翌日は三度|稽古《けいこ》をさした。翌々日も同じだった。引きつづいて毎日そうした。クリストフはじきに倦《あ》いてきた。次にはたまらないほど厭《いや》になった。ついにはもう辛抱ができなくて、逆らおうとした。やらせられることはまったく無意味なことだった。親指をちょこちょこやりながら鍵《キイ》の上をできるだけ早く飛び回ることや、二本の隣りの指の間にぎごちなくこびりついてる薬指をしなやかにすることだった。やってると神経がいらいらしてくるし、ちっとも面白くなかった。魔法めいた共鳴音も、魅惑するような怪物も、一時予感される夢の世界も……すべてなくなってしまった。音階と練習とがつづくばかりで、しかもそれは乾燥で、単調で、無味であって、いつも食物のことに、きまりきった食物のことに及んでゆく食事時の会話より、いっそう無味なものであった。子供はただぼんやりと父親の教えを聞くようになり始めた。きびしく叱りつけられると、厭々《いやいや》ながらやりつづけた。叱責《しっせき》はすぐにやってきた。彼は最も底意地悪い機嫌《きげん》をそれに対抗さした。最もいけなかったことには、ある晩、隣りの室でメルキオルが将来の計画を洩らすのを聞いてしまった。こういうふうに苦しめられるのも、毎日むり強《じ》いに象牙《ぞうげ》の片を動かさせられるのも、賢い動物として見世物にされるためであったのか! 彼はもう親しい河を訪れに
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