#「彼」に傍点]のようだったら、どんなに愉快だろう! 牧場や、柳の枝や、光ってる小石や、さらさらした砂や、そういうものの間を分けて走り、何物にも気をもまず、何物にも煩わされず、まったくの自由である、そうなったらどんなに愉快だろう!……。
 子供は貪《むさぼ》るように眺めまた聴いていた。河に運ばれてるような気がした……。眼をつぶると、青や緑や黄や赤などの色が見えてき、過ぎゆく大きな影や、一面に降り注ぐ日の光が、見えてくる。……映像はしだいにはっきりとなる。それ、広い平野、葦《あし》の茂み、新鮮な草や薄荷《はっか》の匂いがする微風に波打っている畑の作物。至るところに花が咲いている、矢車草、罌粟《けし》、菫《すみれ》。なんと美しいことだろう! なんと快い空気だろう! 密生した柔かな草の中に寝転んだら、さぞ気持がいいだろう!
 ……祝いの日に、ライン産の葡萄酒《ぶどうしゅ》を少しばかり、大きな杯に父からついでもらった時のように、クリストフは心|嬉《うれ》しくて、少しぼーっとした心地になってくる……。――河は流れてゆく……。景色が変わる……。こんどは、水の上に覗《のぞ》き出た木立。歯形に切れてる木の葉は、小さな手のような形をして、河の中に浸り動き裏返っている。木立の間には、一つの村落が河に映っている。流れに洗われてる白壁の上には、墓地の糸杉や十字架が見えている。……次には、種々な岩、立ち並んだ山、傾斜地の葡萄畑、小さな樅《もみ》の林、荒廃した城《ブルク》……。それからまた、平野、作物、小鳥、日の光……。
 緑色の満々たる河水は、ただ一つの思想のように一体をなして、波も立てず、ほとんど皺《しわ》も寄せず、脂《あぶら》ぎって光ってる水形模様を見せながら、流れつづける。クリストフはもうそれを眼には見ない。彼はその音をなおよく聞くために、眼をすっかり閉じている。たえざる水音は彼の心を満たし、彼に眩暈《めまい》を与える。その覆《おお》いかぶさってくる悠久《ゆうきゅう》な夢に彼は吸い寄せられる。河水の騒々しい基調の上に、急調の律動《リズム》が激しい愉悦をもって飛び出してくる。そしてそれらの節奏《リズム》のまにまに、棚《たな》に葡萄蔓《ぶどうづる》がよじ上るように、種々の音楽が高まってくる、銀音の鍵盤から出る白銀の琶音《アルペジオ》、悩ましいヴァイオリンの響き、円《まろ》やかな音調のビロー
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