った。家へかえると、かれは着物を着たままで、ベッドの上に身を投げ出して、深い眠りに落ちてしまった。
彼が眼をさました時は、もう夜になっていたので、月のひかりが部屋のなかへさし込んでいた。時計をみると三時を十五分過ぎていた。もうどうしても寝られないので、彼はベッドに腰をかけて、老伯爵夫人の葬式のことを考え出した。
あたかもそのとき何者かが往来からその部屋の窓を見ていたが、またすぐに通り過ぎた。ヘルマンは別に気にもとめずにいると、それからまた二、三分の後、控えの間のドアのあく音がきこえた。ヘルマンはその伝令下士がいつものように、夜遊びをして酔っ払って帰って来たものと思ったが、どうも聞き慣れない跫音《あしおと》で、誰かスリッパを穿《は》いて床の上をそっと歩いているようであった。ドアがあいた。
――と思うと、真っ白な着物をきた女が部屋にはいって来た。ヘルマンは自分の老いたる乳母と勘違いをして、どうして真夜中に来たのであろうと驚いていると、その白い着物の女は部屋を横切って、彼の前に突っ立った。――ヘルマンはそれが伯爵夫人であることに気がついた。
「わたしは不本意ながらあなたの所へ来ました」と、彼女はしっかりした声で言った。「わたしはあなたの懇願を容《い》れてやれと言いつかったのです。三、七、一の順に続けて賭けたなら、あなたは勝負に勝つでしょう。しかし二十四時間内にたった一回より勝負をしないということと、生涯に二度と骨牌の賭けをしないという条件を守らなければなりません。それから、あなたがわたしの附き添い人のリザヴェッタ・イヴァノヴナと結婚して下されば、私はあなたに殺されたことを赦《ゆる》しましょう」
こう言って、彼女は静かにうしろを向くと、足を引き摺るようにドアの方へ行って、たちまちに消えてしまった。ヘルマンは表のドアのあけたてする音を耳にしたかと思うと、やがてまた、何者かが窓から覗いているのを見た。
ヘルマンはしばらく我れに復《かえ》ることが出来なかったが、やっとのことで起ち上がって次の間へ行ってみると、伝令下士は床《ゆか》の上に横たわって眠っていたので、さんざん手古摺《てこず》った挙げ句にようやく眼をさまさせて、表のドアの鍵をかけさせた。彼は自分の部屋にもどって、蝋燭をつけて、自分が幻影を見たことを細かに書き留めておいた。
六
精神界において二つの固定した想念《アイデア》が共存するということは、物質界において二つの物体が同時に同じ場所に存在する事と同じように不可能である。「三、七、一」の秘伝は、すぐにヘルマンの心から死んだ伯爵夫人の思い出を追いのけてしまって、彼の頭のなかを間断なく駈け廻っては彼の口によって繰り返されていた。
もし若い娘でも見れば、彼は「よう、なんて美しいんでしょう。まるでハートの三そっくりだ」と言うであろう。また、もし誰かが「いま何時でしょうか」と訊《き》いたとしたら、彼は「七時五分過ぎ」と答えるであろう。それからまた、丈夫そうな人たちに出逢ったときには彼はすぐに一の字を思い出した。「三、七、一」の字は寝ていても彼の脳裏に出没して、あらゆる形となって現われた。
彼の目の前には三の切り札が爛漫《らんまん》たる花となって咲き乱れ、七の切り札はゴシック式の半身像となり、一の切り札は大きい蜘蛛となって現われた。そうして、ただ一つの考え――こんなにも高価であがなった以上、この秘密を最も有効に使用しようということばかりが彼の心をいっぱいに埋めていた。彼は賜暇《しか》を利用して外遊して、パリにたくさんある公営の賭博場へ行って運試しをやろうと考えた。ところが、そんな面倒なことをするまでもなく、彼にとっていい機会が到来した。
モスクワには、有名なシェカリンスキイが元締《もとじめ》をしている富豪連の賭博の会があった。このシェカリンスキイはその全生涯を賭博台の前に送りながら何百万の富を築き上げたという人間で、自分が勝てば手形で受け取り、負ければ現金で即座に支払っていた。彼は自分の長いあいだの経験によって仲間からも信頼せられ、彼のあけっ放しの家と、彼の腕利きの料理人と、それから彼が人をそらさぬ態度とによって、一般の人びとから尊敬のまとになっていた。その彼がセント・ペテルスブルグにやって来たので、この首府の若い人びとは舞踏や、女を口説きおとすことなどはそっちのけにして、ファロー(指定の骨牌一組のうちから出て来る順序を当てる一種の賭け骨牌)に耽溺《たんでき》せんがために、みなその部屋に集まって来た。
かれらは慇懃《いんぎん》な召使いの大勢立っている立派な部屋を通って行った。賭博場は人でいっぱいであった。将軍や顧問官はウイスト(四人でする一種の賭け骨牌)を試みていた。若い人びとはビロード張りの長椅子にだらし
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