つむいているひたいに接吻して、部屋を出て行った。
彼は螺旋形の階段を降りて、ふたたび伯爵夫人の寝室へはいった。死んでいる老夫人は化石したように坐っていて、その顔には底知れない静けさがあらわれていた。ヘルマンは彼女の前に立ちどまって、あたかもこの恐ろしい事実を確かめようとするかのように、長い間じっと彼女を見つめていたが、やがて彼は掛毛氈《タペストリー》のうしろにあるドアをあけて小さい部屋にはいると、強い感動に胸を躍らせながら真っ暗な階段を降りかかった。
「たぶん……」と、彼は考えた。「六十年前にも今時分、縫い取りをした上着を着て、|皇帝の鳥《ロアゾー・ロアイアー》に髪を結った彼女の若い恋人が、三角帽で胸を押さえつけながら、伯爵夫人の寝室から忍び出て、この秘密の階段を降りて行ったことだろう。もうその恋人はとうの昔に墓のなかに朽ち果ててしまっているのに、あの老夫人は今日になってようよう息を引き取ったのだ」
その階段を降り切ると、ドアがあった。ヘルマンは例の鍵でそこをあけて、廻廊を通って街へ出た。
五
この不吉な夜から三日後の午前九時に、ヘルマンは――の尼寺に赴いた。そこで伯爵夫人の告別式が挙行されたのである。なんら後悔の情は起こさなかったが、「おまえがこの老夫人の下手人《げしゅにん》だぞ」という良心の声を、彼はどうしても抑《おさ》えつけることが出来なかった。
彼は宗教に対して信仰などをいだいていなかったのであるが、今や非常に迷信的になってきて、死んだ伯爵夫人が自分の生涯に不吉な影響をこうむらせるかもしれないと信じられたので、彼女のおゆるしを願うためにその葬式に列席しようと決心したのであった。
教会には人がいっぱいであった。ヘルマンはようように人垣を分けて行った。柩《ひつぎ》はビロードの天蓋の下の立派な葬龕《ずし》に安置してあった。そのなかに故伯爵夫人はレースの帽子に純白の繻子《しゅす》の服を着せられ、胸に合掌《がっしょう》して眠っていた。葬龕の周囲には彼女の家族の人たちが立っていた。召使いらは肩に紋章入りのリボンを付けた黒の下衣《カフタン》を着て、手に蝋燭を持っていた。一族――息子たちや、孫たちやそれから曾孫《ひこ》たち――は、みな深い哀《かな》しみに沈んでいた。
誰も泣いているものはなかった。涙というものは一つの愛情である。しかるに、伯爵夫人はあまりにも年をとり過ぎていたので、彼女の死に心を打たれたものもなく、一族の人たちもとうから彼女を死んだ者扱いにしていたのである。
ある有名な僧侶が葬式の説教をはじめた。彼は単純で、しかも哀憐《あいれん》の情を起こさせるような言葉で、長いあいだキリスト教信者としての死を静かに念じていた彼女の平和な永眠を述べた。
「ついに死の女神は、信仰ふかき心をもってあの世の夫に一身を捧げていた彼女をお迎えなされました」と、彼は言った。
法会《ほうえ》はふかい沈黙のうちに終わった。一族の人びとは死骸に永別を告げるために進んでゆくと、そのあとから大勢《おおぜい》の会葬者もつづいて、多年自分たちのふまじめな娯楽の関係者であった彼女に最後の敬意を表した。彼らのうしろに伯爵夫人の邸《やしき》の者どもが続いた。その最後に伯爵夫人と同年輩ぐらいの老婆が行った。彼女は二人の女に手を取られて、もう老いぼれて地にひざまずくだけの力もないので、ただ二、三滴の涙を流しながら女主人の冷たい手に接吻した。
ヘルマンも柩のある所へ行こうと思った。彼は冷たい石の上にひざまずいて、しばらくそのままにしていたが、やがて伯爵夫人の死に顔と同じように真《ま》っ蒼《さお》になって起《た》ちあがると、葬龕《ずし》の階段を昇って死骸の上に身をかがめた――。その途端《とたん》に、死んでいる夫人が彼をあざけるようにじろりと睨《にら》むとともに、一つの眼で何か目配せをしたように見えた。ヘルマンは思わず後ずさりするはずみに、足を踏みはずして地に倒れた。二、三人が飛んで来て、彼を引き起こしてくれたが、それと同時に、失神したリザヴェッタ・イヴァノヴナも教会の玄関へ運ばれて行った。
この出来事がすこしのあいだ、陰鬱な葬儀の荘厳《そうごん》をみだした。一般会葬者のあいだからも低い呟《つぶや》き声が起こって来た。背丈《せい》の高い、痩せた男で、亡き人の親戚であるという侍従職がそばに立っている英国人の耳もとで「あの青年士官は伯爵夫人の私生児《しせいじ》ですよ」とささやくと、その英国人はどうでもいいといった調子で、「へえ!」と答えていた。
その日のヘルマンは終日《しゅうじつ》、不思議に興奮していた。場末の料理屋へ行って、常になく彼はしたたかに酒をあおって、内心の動揺をぬぐい去ろうとしたが、酒はただいたずらに彼の空想を刺戟するばかりであ
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