に心配しながら見ているのであった。
三枚の骨牌の物語は、彼の空想に多大な刺戟《しげき》をあたえたので、彼はひと晩そのことばかりをかんがえていた。
「もしも……」と、次の朝、彼はセント・ペテルスブルグの街を歩きながら考えた。「もしも老伯爵夫人が彼女の秘密を僕に洩らしてくれたら……。もしも彼女が三枚の必勝の切り札を僕に教えてくれたら……。僕は自分の将来を試さずにはおかないのだが……。僕はまず老伯爵夫人に紹介されて、彼女に可愛がられなければ――彼女の恋人にならなければならない……。しかしそれはなかなか手間がかかるぞ。なにしろ相手は八十七歳だから……。ひょっとすると一週間のうちに、いや二日も経たないうちに死んでしまうかもしれない。三枚の骨牌の秘密も彼女とともに、この世から永遠に消えてしまうのだ。いったいあの話はほんとうかしら……。いや、そんな馬鹿らしいことがあるものか。経済、節制、努力、これが僕の三枚の必勝の切り札だ。この切り札で僕は自分の財産を三倍にすることが出来るのだ……。いや、七倍にもふやして、安心と独立を得るのだ」
こんな瞑想にふけっていたので、彼はセント・ペテルスブルグの目貫《めぬき》の街の一つにある古い建物の前に来るまで、どこをどう歩いていたのか気がつかなかった。街は、燦然《さんぜん》と輝いているその建物の玄関の前へ、次から次へとひき出される馬車の行列のために通行止めになっていた。その瞬間に、妙齢の婦人のすらりとした小さい足が馬車から舗道へ踏み出されたかと思うと、次の瞬間には騎兵士官の重そうな深靴や、社交界の人びとの絹の靴下や靴があらわれた。毛皮や羅紗の外套が玄関番の大男の前をつづいて通った。
ヘルマンは立ち停まった。
「どなたのお邸《やしき》です」と、彼は角のところで番人にたずねた。
「A伯爵夫人のお邸です」と、番人は答えた。
ヘルマンは飛び上がるほどにびっくりした。三枚の切り札の不思議な物語がふたたび彼の空想にあらわれて来た。彼はこの邸の前を往きつ戻りつしながら、その女主人公と彼女の奇怪なる秘密について考えた。
彼は遅くなって自分の質素な下宿へ帰ったが、長いあいだ眠ることが出来なかった。ようよう少しく眠りかけると、骨牌や賭博台や、小切手の束や、金貨の山の夢ばかり見た。彼は順じゅんに骨牌札に賭けると、果てしもなく勝ってゆくので、その金貨を掻きあつめ、紙幣をポケットに捻《ね》じ込んだ。
しかも翌あさ遅く眼をさましたとき、彼は空想の富を失ったのにがっかりしながら街へ出ると、いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ来た。ある未知《みち》の力がそこへ彼を引き寄せたともいえるのである。彼は立ち停まって窓を見上げると、一つの窓から房ふさとした黒い髪の頭が見えた。その頭はおそらく書物か刺繍台の上にうつむいていたのであろう。と思う間に、その頭はもたげられ、生き生きとした顔と黒い二つのひとみが、ヘルマンの眼にはいった。
彼の運命はこの瞬間に決められてしまった。
三
リザヴェッタ・イヴァノヴナは彼女の帽子と外套をぬぐか脱がないうちに、伯爵夫人は彼女を呼んで、ふたたび馬車の支度をするように命じたので、馬車は玄関の前に牽《ひ》き出された。そうして、夫人と彼女とはおのおのその席に着こうとした。二人の馭者が夫人を扶《たす》けて馬車へ入れようとする時、リザヴェッタはかの工兵士官が馬車の後《うしろ》にぴったりと身を寄せて立っているのを見た。――彼は彼女の手を掴《つか》んだ。あっと驚いて、リザヴェッタはどぎまぎしていると、次の瞬間にはもうその姿は消えて、ただ彼女の指のあいだに手紙が残されてあったのに気がついたので、彼女は急いでそれを手袋のなかに隠してしまった。
ドライヴしていても、彼女にはもう何も見えなかった。聞こえなかった。馬車で散歩に出たときには「今会ったかたはどなただ」とか、「この橋の名はなんというのだ」とか、「あの掲示板にはなんと書いてある」とか、絶えず訊《き》くのが夫人の習慣になっていたが、なにしろ場合が場合であるので、きょうに限ってリザヴェッタはとかくに辻褄《つじつま》の合わないような返事ばかりするので、夫人はしまいに怒り出した。
「おまえ、どうかしていますね」と、夫人は呶鳴《どな》った。「おまえ、気は確かかえ。どうしたのです。わたしの言うことが聞こえないのですか。それとも分からないとでもお言いなのですか。お蔭さまで、わたしはまだ正気でいるし、呂律《ろれつ》もちゃんと廻っているのですよ」
リザヴェッタには夫人の言葉がよく聞こえなかった。邸《やしき》へ帰ると、彼女は自分の部屋へかけ込んで、手袋から彼の手紙を引き出すと、手紙は密封してなかった。読んでみると、それはドイツの小説の一字一句を訳して、そのままに引用した優しい
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