、たれ一人として彼女に注目する者はなかった。
舞踏会に出ても、彼女はただ誰かに相手がない時だけ引っ張り出されて踊るぐらいなもので、貴婦人連も自分たちの衣裳の着くずれを直すために舞踏室から彼女を引っ張り出す時ででもなければ、彼女の腕に手をかけるようなことはなかった。したがって、彼女はよく自己を知り、自己の地位をもはっきりと自覚していたので、なんとかして自分を救ってくれるような男をさがしていたのであるが、そわそわと日を送っている青年たちはほとんど彼女を問題にしなかった。しかもリザヴェッタは世間の青年たちが追い廻している、面《つら》の皮の厚い、心の冷たい、年頃《としごろ》の娘たちよりは百層倍も可愛らしかった。彼女は燦爛《さんらん》として輝いているが、しかも退屈な応接間からそっと忍び出て、小さな惨《みじ》めな自分の部屋へ泣きにゆくこともしばしばあった。その部屋には一つの衝立《ついたて》と箪笥と姿見と、それからペンキ塗りの寝台があって、あぶら蝋燭が銅製の燭台の上に寂しくともっていた。
ある朝――それはこの物語の初めに述べた、かの士官たちの骨牌《かるた》会から二日ほどの後《のち》で、これからちょうど始まろうとしている事件の一週間前のことであった。リザヴェッタ・イヴァノヴナは窓の近くで、刺繍台の前に腰をかけていながら、ふと街《まち》の方を眺めると、彼女は若い工兵隊の士官が自分のいる窓をじっと見上げているのに気がついたが、顔を俯向《うつむ》けてまたすぐに仕事をはじめた。それから五分ばかりのあと、彼女は再び街のほうを見おろすと、その青年士官は依然として同じ場所に立っていた。しかし、往来の士官に色眼などを使ったことのない彼女は、それぎり街のほうをも見ないで、二時間ばかりは首を下げたままで、刺繍をつづけていた。
そのうちに食事の知らせがあったので、彼女は立って刺繍の道具を片付けるときに、なんの気もなしにまたもや街のほうをながめると、青年士官はまだそこに立っていた。それは彼女にとってまったく意外であった。食後、彼女は気がかりになるので、またもやその窓へ行ってみたが、もうその士官の姿は見えなかった。――その後、彼女は、その青年士官のことを別に気にもとめていなかった。
それから二日を過ぎて、あたかも伯爵夫人と馬車に乗ろうとしたとき、彼女は再びその士官を見た。彼は毛皮の襟で顔を半分かくして、入り口のすぐ前に立っていたが、その黒い両眼は帽子の下で輝いていた。リザヴェッタはなんとも分からずにはっとして、馬車に乗ってもまだ身内がふるえていた。
散歩から帰ると、彼女は急いで例の窓ぎわへ行ってみると、青年士官はいつもの場所に立って、いつもの通りに彼女を見あげていた。彼女は思わず身を引いたが、次第に好奇心にかられて、彼女の心はかつて感じたことのない、ある感動に騒がされた。
このとき以来、かの青年士官が一定の時間に、窓の下にあらわれないという日は一日もなかった。彼と彼女のあいだには無言のうちに、ある親しみを感じて来た。いつもの場所で刺繍をしながら、彼女は彼の近づいて来るのをおのずからに感じるようになった。そうして顔を上げながら、彼女は一日ごとに彼を長く見つめるようになった。青年士官は彼女に歓迎されるようになったのである。彼女は青春の鋭い眼で、自分たちの眼と眼が合うたびに、男の蒼白い頬がにわかに紅《あか》らむのを見てとった。それから一週間目ぐらいになると、彼女は男に微笑を送るようにもなった。
トムスキイが彼の祖母の伯爵夫人に、友達の一人を紹介してもいいかと訊いたとき、この若い娘のこころは烈《はげ》しくとどろいた。しかしナルモヴが、工兵士官でないと聞いて、彼女は前後の考えもなしに、自分の心の秘密を気軽なトムスキイに洩らしてしまったことを後悔した。
ヘルマンはロシアに帰化したドイツ人の子で、父のわずかな財産を相続していた。かれは独立自尊の必要を固く心に沁み込まされているので、父の遺産の収入には手も触れないで、自分自身の給料で自活していた。したがって彼に、贅沢などは絶対に許されなかったが、彼は控え目がちで、しかも野心家であったので、その友人たちのうちには稀《まれ》には極端な節約家の彼に散財させて、一夕《いっせき》の歓を尽くすようなこともあった。
彼は強い感情家であるとともに、非常な空想家であったが、堅忍不抜な性質が彼を若い人間にありがちな堕落におちいらせなかった。それであるから、肚《はら》では賭け事をやりたいと思っても、彼はけっして一枚の骨牌をも手にしなかった。彼にいわせれば、自分の身分では必要のない金を勝つために、必要な金をなくすことは出来ないと考えていたのである。しかも彼は骨牌のテーブルにつらなって、夜通しそこに腰をかけて、勝負の代るごとに自分のことのよう
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