い」と、老夫人は叫んだ。「すぐに出られるように、馬車を支度させておくれ」
「唯今《ただいま》すぐに申しつけます」と、若い婦人は次の間へ急いで行った。
一人の召使いがはいって来て、ポール・アクレサンドロヴィッチ公からのお使いだといって、二、三冊の書物を伯爵夫人に渡した。
「どうもありがとうと公爵にお伝え申しておくれ」と、夫人は言った。「リザヴェッタ……。リザヴェッタ……。どこへ行ったのだねえ」
「唯今、着物を着換えております」
「そんなに急がなくてもいいよ。おまえ、ここへ掛けて、初めの一冊をあけて、大きい声をして私に読んでお聞かせなさい」
若い婦人は書物を取りあげて二、三行読み始めた。
「もっと大きな声で……」と、夫人は言った。「どうしたというのです、リザヴェッタ……。おまえは声をなくしておしまいかえ。まあ、お待ちなさい。……あの足置き台をわたしにお貸しなさい。……そうして、もっと近くへおいで。……さあ、お始めなさい」
リザヴェッタはまた二ページほど読んだ。
「その本をお伏せなさい」と、夫人は言った。「なんというくだらない本だろう。ありがとうございますと言ってポール公に返しておしまいなさい。……そうそう、馬車はどうしました」
「もう支度が出来ております」と、リザヴェッタは街《まち》の方をのぞきながら答えた。
「どうしたというのです、まだ着物も着換えないで……。いつでも私はおまえのために待たされなければならないのですよ。ほんとに焦《じ》れったいことだね、リザヴェッタ」
リザヴェッタは自分の部屋へ急いでゆくと、それから二秒と経たないうちに夫人は力いっぱいにベルを鳴らし始めた。三人の侍女が一方の戸口から、また一人の従者がもう一方の戸口からあわてて飛び込んで来た。
「どうしたというのですね。わたしがベルを鳴らしているのが聞こえないのですか」と、夫人は呶鳴《どな》った。「リザヴェッタ・イヴァノヴナに、わたしが待っているとお言いなさい」
リザヴェッタは帽子と外套を着て戻って来た。
「やっと来たのかい。しかし、どうしてそんなに念入りにお化粧をしたのです。誰かに見せようとでもお思いなのかい。お天気はどうです。風がすこし出て来たようですね」
「いいえ、奥様。静かなお天気でございます」と、従者は答えた。
「おまえはでたらめばかりお言いだからね。窓をあけてごらんなさい。それ、ご覧。風が吹いて、たいへん寒いじゃないか。馬具を解いておしまいなさい。リザヴェッタ、もう出るのはやめにしましょう。……そんなにお粧《つく》りをするには及ばなかったね」
「わたしの一生はなんというのだろう」と、リザヴェッタは心のうちで思った。
実際、リザヴェッタ・イヴァノヴナは非常に不幸な女であった。ダンテは「未熟なるもののパンは苦《にが》く、彼の階梯は急なり」と言っている。しかもこの老貴婦人の憐れな話し相手リザヴェッタが、居候《いそうろう》と同じような辛《つら》い思いをしていることを知っている者は一人もなかった。A伯爵夫人はけっして腹の悪い婦人ではなかったが、この世の中からちやほや[#「ちやほや」に傍点]されて来た婦人のように気まぐれで、過去のことばかりを考えて現在のことを少しも考えようとしない年寄りらしく、いかにも強欲で、我儘《わがまま》であった。彼女はあらゆる流行社会に頭を突っ込んでいたので、舞踏会にもしばしば行った。そうして、彼女は時代おくれの衣裳やお化粧をして、舞踏室になくてはならない不格好な飾り物のように、隅の方に席を占めていた。
舞踏室へはいって来た客は、あたかも一定の儀式ででもあるかのように彼女に近づいて、みな丁寧に挨拶するが、さてそれが済むと、もう誰も彼女の方へは見向きもしなかった。彼女はまた自分の邸で宴会を催す場合にも、非常に厳格な礼儀を固守していた。そのくせ、彼女はもう人びとの顔などの見分けはつかなかった。
夫人のたくさんな召使いたちは主人の次の間や自分たちの部屋にいる間にだんだん肥って、年をとってゆく代りに、自分たちの仕《し》たい三昧《ざんまい》のことをして、その上おたがいに公然と老伯爵夫人から盗みをすることを競争していた。そのなかで不幸なるリザヴェッタは家政の犠牲者であった。彼女は茶を淹《い》れると、砂糖を使いすぎたと言って叱られ、小説を読んで聞かせると、こんなくだらないものをと言って、作者の罪が自分の上に降りかかって来る。夫人の散歩のお供をして行けば、やれ天気がどうの、舗道がどうのと言って、やつあたりの小言を喰う。給料は郵便貯金に預けられてしまって、自分の手にはいるということはほとんどない。ほかの人たちのような着物を買いたいと思っても、それも出来ない。特に彼女は社交界においては実にみじめな役廻りを演じていた。誰も彼も彼女を知ってはいるが
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