ォりなくて、肉体をも失はうとするのかの。見下げ果てた奴め、何と云ふ恐しい目にあふものぢや。」彼のかう云つた調子は、強くわしを動かした。が、此記憶の鮮かなのにも拘らず、其印象さへ間も無く消えてしまつて、数知れぬ外の心配がわしの心からそれを移してしまつた。遂にある夜わしはクラリモンドが、食事の後で日頃わしにすゝめるを常とした香味入りの酒の杯へ、何やら粉薬を入れるのを見てとつた。それは彼女がさうとは気が附かずに立てゝ置いた鏡に映つて見えたのである。わしは杯をとり上げて、口へ持つてゆく真似をして、それから、後で飲むつもりのやうに手近にあつた家具の上へのせて置いた。で、彼女が後を向いた隙を窺つて、中の酒を卓の下へあけると、其儘、わしの閨へ退いて床の上に横になつた。わしは少しも眠らずに、此神秘から何が起るか気を附けて見出さうと決心したのである。待つ間もなく、クラリモンドは、寝衣を着てはひつて来た。そして寝床の上に上つてわしの傍に横になつた。彼女はわしが睡つてゐるのを確めると、わしの腕をまくつて、髪から金の留針をぬきながら、低い声でかう呟き始めた。
「一|滴《しづく》、たつた一滴、私の針の先へ紅宝
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