、もぐらもちのように意気地《いくじ》がなく、浪に乗り、浪に沈みながら、悲鳴をあげている。
「ああ。ああ……」
 そして、いつのまにか、僕との距離が遠ざかってしまった。
「おーい」
 といっても返事がない。
「しっかりしろ」
 振りかえって叫んだが、もはや、姿も見えなかった。虎丸は何処と、顔をあげてみたが、もうそれも僕の視野から消え失せてしまった。
 僕は、只《ただ》一人、浮袋《ブイ》に身を托して、涯《はて》しない洋上を、浪に漂わねばならないのだ。

   二 抹香鯨《まっこうくじら》と人造島

     海の怪物

 その夜半。真暗な洋上で、僕は、何物かに、頭をコツンと叩《たた》かれたような気がして、はッ! として、失いかけていた意識を、取返すことができた。
「おや! 何だろう」
 手探りに、四辺《あたり》を探ると、怪物は、ふたたび僕の頭をコツンと叩いた。
「畜生! 誰だ」
 が、手に触れたものは、変に冷たい、大きな、妙に不気味な怪物だった。
「岩礁かな」
 とおもったが、撫《な》で廻してみると、いやにつべつべ[#「つべつべ」に傍点]した代物《しろもの》だ。
「動物のような感じだぞ」
 だが、動物にしては、これはまた、変に茫漠《ぼうばく》として大きい。
「何でもいい。気力を失って、凍死しかかっている僕の頭を、コツンと叩いて意識をかえしてくれた怪物は、僕の生命の恩人だ。ありがとう」
 僕は、心からそう感謝して、怪物の肌を撫で廻した。すると、それは海の怪物海馬か、海象か、鯨といった感じである。
「あッ! いけない。海馬や鯨だったら、こうしてはいられない。いまに尾鰭《おびれ》で一つあおられると、参ってしまう。こいつは剣呑《けんのん》剣呑……」
 そこで、周章《あわ》てて、怪物の身辺を離れた。が、離れて暗闇《くらやみ》の海に漂うと、やっぱり心細い。気力を失いかけている僕は、このまま数時間、寒汐《さむしお》に漂うたら、ふたたび意識を失ってしまうだろう。
「よしッ! 海馬でも、海象でも、何でもいい。そいつの背中を借りて、一息入れるとしようか」
 僕は、またも、怪物に近づいた。そして、小山のような背中によじ登ろうと試みた。海馬や、海象なら、こうして僕に、いくたびか取縋《とりすが》られると、うるさくなって、海へもぐり込むにちがいない。だのに、一向気にもとめず、僕の為《な》すままに任している。
「こいつア、海馬や、海象よりも、もっと大きな怪物かもしれんぞ」
 僕は、いくたびか辷《すべ》り落ちて、やっと、怪物の背中へ這《は》い上ることが出来た。そこは、やはりつべつべしているが、小丘のように広い。足もとに気をつけて、歩いてみると、可成《かな》りある。
「駆逐艦ぐらいあるぞ。鯨かな」
 僕は、不安におもったが、ええままよとばかり、怪物の背中で肘《ひじ》を枕に横になった。鯨なら、やがて海底へ沈んでしまうだろう。そのときは、それまでだ。一緒に海底見物と洒落《しゃれ》ようか。
 僕は、そんな暢気《のんき》なことを考えて、悠々と怪物の背中で横になってみたが、怪物は、一向に海底へ沈んで往く様子もない。僕をのせたまま、潮流に乗って、何処《どこ》へか流されて往くようだ。
 怪物の背中に横になっていると、夜風が肌を刺すようだ。しかし、浮袋につかまって、巨浪に飜弄《ほんろう》されているのとちがって、飛沫《ひまつ》を浴びることもなければ、手足を動かすこともいらない。濡鼠《ぬれねずみ》になって寒いが、極度に疲れているので、いつか睡気《ねむけ》を催して来た。
「眠って転げ落ちたら大変だ」
 そうおもいながらも、うとうととなる。そこで僕は、怪物の背中で、腹這《はらば》いになった。これなら、なかなか転げ落つることもあるまい。
 僕は、正体のわからぬ怪物の背中で、そのまま、深い眠りに落ちてしまった。

     あッ! 氷山?

 幾時間眠ったろう。ふと眼が醒《さ》めた。
 朝の太陽が、僕の背中をあたためてくれた。
「おお、こいつは、素敵《すてき》素敵」
 僕は、怪物の背中に起き直って、四辺《あたり》の景色を眺め入った。相変らず、水また水の、茫々《ぼうぼう》たる海原だが、いつか北洋の圏内を去ったとみえて、空気も爽《さわや》かで、吹く風も暖かだ。
 もう、凍死することはあるまい。だが、まだ怪物の背中に乗っかっているのだ。幸い、ゆうべは、怪物も、海中へ沈まずにいてくれたから、たすかったようなものの、何時《いつ》、もぐり込むかわからぬ。眼が醒めて、元気づくと、こんどは、怪物の背中にいることが不安になって来た。
「それにしても、怪物は一体、何物だろう」
 僕は、怪物の正体を突止めるために、背中を歩き廻った。なるほど、駆逐艦ほどもある大きさだ。歩きながら、よく見究めると、やっぱり鯨だった。大きな抹香鯨《まっこうくじら》だった。しかも、鯨の奴《やつ》、白いお腹《なか》を上に向けて、悠々潮流に乗っている。
 僕は、ゆうべから、抹香鯨のお腹の上に眠っていたのだった。
「なアんだ。お腹の上にいたのか」
 僕は、可笑《おか》しくなってひとりで笑った。が、考えてみると、鯨がお腹を上に向けて泳いでいるわけはない。僕は、やっと怪物の謎《なぞ》を解くことが出来た。
「ああ、そうだ。こいつは、鯨の屍骸《しがい》だったのか。どうりで、僕を竜宮へ連れて往かなかったはずだ」
 それがわかると、少しつまらなくなった。けれど、鯨の屍骸なら、結局安全だ。竜宮へ連れて往ってくれないかわりに、こうして漂流しているうちに、やがて、捕鯨船に発見されるだろう。
「まずまず安心」
 そこで、僕は、また、鯨のお腹の上で横になろうとして、ふと、左手はるかに瞳《ひとみ》を投げると、おもわず、
「おや!」
 と叫んだ。そのおどろきも当然、はるか南東の洋上に、ふしぎな島が、うかんでいるではないか。しかも、その島は純白で、朝陽《あさひ》をいっぱいにうけて、銀色さんぜんと輝いているではないか。
「島かな。帆船かな。それとも氷山かな」
 だが、氷山が、こんな暖かい風の吹く海洋まで流れてくるはずはない。では、貝殻の島かもしれない。貝殻や鳥糞《ちょうふん》が、島嶼《しま》のうえに堆積して、白い島にみえるのもある。けれど、その白さとちがって、あの銀色さんぜんと輝いているところは、どうしても氷山だ。
 可笑《おか》しい。どうして、氷山が、こんな暖かい海洋へ流れて来て溶けないのかしら。
 ふしぎにおもって、なおもよく見入っていると、僕を乗せた鯨の屍骸は、どうしたことか、いつのまにか、急速力を出して、かの氷山を目指して進んでいるではないか。
「おや、いよいよ可笑しいぞ。鯨が生き返ったのかしら」いや、生きたのではない。鯨の屍骸は、狂おしく迅《はや》い潮流に乗って、矢のように走り出したのだ。しかも、その方向は、はるか彼方《かなた》に浮ぶ氷山を目指している。それが磁石に吸いつけられるように、かなりの速力で氷山に近づいているのだ。
「こいつは剣呑《けんのん》! あの氷山に正面衝突してみろ、鯨|諸共《もろとも》、僕の身体も木葉微塵《こっぱみじん》になるだろう」
 さすがの僕も、今度こそは、怖《おそ》ろしくなって眼を瞑《つむ》った。氷山と鯨は、刻々にその距離を狭めていくようだ。万事休矣《ばんじきゅうす》?

     人造島の秘密

 あくる朝、僕は、病室とおぼしい、明るい室の、寝台のうえで眼を醒した。僕の身体は、ぐるぐる巻に繃帯《ほうたい》が施されてある。きのうの朝、鯨の屍骸に跨《またが》ったまま、潮流に押流され、急速力で氷山に近づき、ドカンと衝突したまでは覚えているが、そのとき、氷山の一角に五体を強く打突けて人事不省に陥ったまま、この病室に運ばれたものとみえる。
「それにしても、ここは一体、何処だろう。氷山に、こんな立派な病室があるわけはないし……」
 僕は、夢見心地で、寝台を降りて、ふらふらと室内を歩き廻った。
 窓から、朝陽がいっぱいに差込んでいる。戸外からみると、おどろいた。やっぱり氷山、というよりか、氷の陸地である。平坦《へいたん》な氷の島のうえに、白堊《はくあ》の家が建っているのだ。その一室が、病室になっている。いや、白堊の家だけではない、工場もあるし、動力所とおぼしい建物もあるし、飛行機の格納庫さえある。しかも、氷上には、単葉の飛行艇が二機、翼《よく》を休めているし、水色の作業服を着た人々が、水晶のように美しい氷上を歩いている。
「北極から流れて来た氷山じゃないぞ。島の上に氷を張りつめたのかしら。いや、それなら家も、格納庫も、氷に鎖《とざ》されているはずだ。だいいち、こんなに太陽が輝いて、暖かいのに、氷が溶けずに、大理石のように輝いているのは可笑《おか》しい」
 僕は、いよいよ不審におもっていると、不意に扉《ドア》が開いて、水色の作業服を着た一青年が入って来た。彼は、僕をじろりみて、いきなり、
「君の国籍は?」と妙なことを訊《たず》ねた。
「僕は、日本人です」
「うむ……それはいかん。日本人であることが不幸だった。せっかく救《たす》けてあげたが、このまま帰りたまえ」
「え!」
「われわれは、外国の漂流者を救助する義務はないのだ。すぐに、島を退去したまえ」
 その声は、氷よりも冷たく感じられた。
「どうして、僕を追払おうとするのです」
「われわれは、水難救済事業に携っているのではない。しかも、君が、日本の少年であることが不幸だった。君を、この島に滞在させるわけにはいかんのだ」
「……」
「その理由というのはつまり、この島は、人造島だからだ」
「えッ、人造島?」
「そうだ。これは、アメリカの兵器会社の技師が発明した人造島で、われわれ技術員は、その耐熱試験をやっているのだ。氷の島が温帯で、いや熱帯圏内に入っても、果して耐久力があるか否かを試験しているのだ。そこで、この島の秘密を、日本の少年に盗まれては、せっかくの、秘密特許の人造島も、無価値になるじゃないか」
「僕は、少年です。断じて人造島の秘密を盗むようなことはありません。日本へ帰るまで、この島に置いてください」
「いかん。君を救けたのは、君の労働力を必要としたからだ。つまり、君に、炊事《すいじ》やそのほかの仕事をして貰《もら》おうとおもったのだが、不幸にして君は、模倣《もほう》の巧みな日本人だったじゃないか、一刻も、この島に置くわけにはいかん」
 青年技師は、卓上の呼鈴《ベル》を押した。と、それへ、同じ作業服を着た数名の男が現われた。
「この少年を、追放してくれたまえ」
 青年技師は、冷酷無情にも、そう命じると、数名の男は、矢庭《やにわ》に僕の肩や、手をとった。僕はこれまで、幾度か生死の境をとおって来ているので、またも、この奇怪な氷の島から追放され、海へ放り込まれることを、それほど怖《おそ》れなかったが、しかし、何か曰《いわ》くのありそうな人造島の秘密を、何とかして探りたいとおもったので、むざむざと、海へ放り込まれたくはなかった。
「僕は、どんな労働でもやりますから、この島に置いて下さい」扉《ドア》の外へ、つまみ出されるのを拒《こば》んで、こう哀訴したが、青年技師はいよいよ冷酷だ。
「日本の少年なら、いいかげんに観念しろ。……さア諸君、面倒だから、この少年を麻袋に詰めて、海ン中へ叩き込んでくれたまえ」
「オーライ」作業服を着た男たちは、声とともに、寄ってたかって僕を捉《とら》え、用意の麻袋を頭からすっぽり被《かぶ》せてしまった。そして、藻掻《もが》く手足を押込んでしまうと、袋の口を麻縄《ロープ》で厳重に結《ゆわ》いてしまった。ああ、僕は、こんどこそ海底の藻屑《もくず》と消え失せなければならないのか。
 やがて、麻袋に詰められた僕は、一人の雑役夫に担がれて、氷の島の岸へ運ばれた。
 僕の生命は、風前の灯火《ともしび》だ。

     中国服の老人

 雑役夫は、麻袋をいったん置くと、こんどは、その両端を二人で持って、高く差しあげた。「ワン」「ツー」「スリー」の号令とともに、一思いにドブンと、海
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