だ。
「いや、ほかの奴等は、死んだものに防腐剤を施したのだから、肉体のみを防腐したに止って生命は再び肉体に還っては来はせぬ。この少年は、生きたまま防腐剤を施したのじゃから、それを解消すると、この白蝋《はくろう》のような顔が、忽ち紅潮してくれるだろう」
「はやく、注射して下さい」
「よろしい」
 怪老人は陳《チャン》君の屍骸の腕に幾本か注射を試みた。
「これでよろしい。見ていたまえ。屍骸が動き出すであろう」僕も、老博士も、非常な興味を覚えて陳君の屍骸に注目した。
 五分、十分、十五分……と経つうちに、やがて、白蝋のような屍骸の顔に、血の色がさして来た。
「おお」老博士は、低く呻《うめ》いた。こんどは、眉毛《まゆげ》が微《かす》かに動いた。手足が、ビクリビクリと微動した。
「おお、陳君!」僕は、おもわず叫んで、屍骸に駈《か》け寄ると、怪老人は、手をあげて制し、
「静かに、静かに」用意の葡萄《ぶどう》酒を二、三滴、屍骸の口へ垂らしてやった。すると、陳君は、眼をひらいて、四辺《あたり》をきょときょと見廻した。
「おお、気がついたか。わしだよ」怪老人は、陳君の顔を覗《のぞ》いた。
「ああ、先生!」
「おまえの友人が、見舞に来てくれているぞ」
「えッ!」陳君は、顔をあげて、僕を見た。
「おお、陳君! 僕だ、僕だ」
「おお、[#「おお、」は底本では「おお 」]山路君!」陳君は、余りの悦《うれ》しさに、涙をいっぱい両眼に湛《たた》えて、
「よく、無事でいてくれた」僕も、感激の涙を流して、陳君の手を固く握りしめた。
 怪老人と老博士。これもまた、感激に身を顫《ふる》わしながら、手を握り合った。
「あなたは世界最大の科学者です」これは老博士だ。
「ありがとう」白衣の怪老人は、少年のように、羞《はに》かんで応えた。
「あなたを、亡霊とおもったのは、われわれの不明でした」
「いや、亡霊であるかもしれない。何故なら、この船は、足を失った死の船だからねえ」
「そうだ、死の船!」
「わしは、人間の心臓を取替えることが出来、死んだ人間を生き還らせることさえ出来るが、死んだ船を蘇生さすことは出来なかったよ。ハハハハハ」
 なるほど、この偉《すぐ》れた生理学者は、黒船の心臓を生かすことは出来ないのだ。僕は、
「博士、あなたは、人造島をつくった方です。人造島の心臓部の設計をしたぐらいですから、この黒船の故障を直せるでしょうね」
 と、老博士にいうと、陳君は、それを引取って、
「そうだ。この船の心臓部の故障を直していただくと、僕は機関士、山路君に運転士、たちまち船を動かして、一路、日本の横浜へ直航が出来ますぜ」
 怪老人も、肯《うなず》いた。
「なるほど。人間の心臓の手入れは、わしの得意とするところじゃが、船の心臓の手入れは、博士におねがいするとしよう」老博士は、とうとう、機関《エンジン》の修理を押付けられてしまった。
「炭水はあるかね」
「あります。この三ヶ月、一塊の石炭も使わなかったので□」
「機械油は?」
「それも十分です」
「ではひとつ、心臓の手入れをしてみようか」老博士は、やっと腰をあげた。陳君は、僕に向って、
「君は、また運転士だぜ。すぐ用意をしたまえよ。博士の修理が出来たら、僕は、すぐに機関を動かしてみせる。そのまに、石炭を汽罐《かま》に放り込んで置こうか」気の早い陳君は、逸早《いちはや》く昇降口から姿を消してしまった。

     魔の海! 魔の海!

 果して、数時間ののち、幽霊船|虎丸《タイガーまる》は、運命の方船《はこぶね》を、海洋に捨て、単独で動き出した。心臓部の機関が、軽快な響きを立てて回転し、太い煙突からは、海洋を圧するような黒煙が吐き出され、十五|節《ノット》の速度で、西に針路を執って航行しはじめた。僕は、得意満面である。西へ! 西へ! 西方には、祖国日本が横《よこた》わっている。
 僕は、運転室で、やたらに口笛を吹いた。
 数ヶ月前、横浜|埠頭《ふとう》で、ハマの船員たちに騙《だま》されて、密猟船虎丸のボーイとして乗船した僕が、今は、素人ながら、一等運転士の貫録をみせて、納り返っているなど、まったく夢のようだ。どろぼう[#「どろぼう」に傍点]船の奴隷が、どろぼう船を分捕って祖国へ凱旋《がいせん》するのだ。僕は、運転室で、得意になって口笛を吹いていたとき、ふとコンパスが狂いだしたのを発見して、「あッ!」と低く呟いた。コンパスが狂ったのは、コンパス自身の罪ではなく、何かの、見えぬ力が、船の進行を邪魔しはじめたからだ。機関《エンジン》の狂ったのでも、汽罐《かま》が破裂したのでもない。船が、急湍《きゅうたん》のような、烈しい潮流に乗って、目まぐるしい迅《はや》さで、一方向に急進しはじめたからだ。
「魔の海! 恐ろしい魔の海だ」僕は、それを知る
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